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ズートピアをヒッピー文化で読み解く

 

 ズートピアを見ました。

 いやぁ、面白かった。傑作だった
 『これは様々なカタチでの差別を描いた問題提起の作品であり……』と語ることもできれば、『ニックかっこいい~!!!!!ニック萌え~!!ジュディとニックは永遠に爆発しろッ☆☆☆』とキャラ萌えすることもできるという素晴らしいエンターテイメント性。
 『マッドマックス 怒りのデスロード』以来の重いテーマとクルクルパーな快感が共存している絶妙なバランス感覚を持った映画だった。

 そしてこの映画について語るなら、やはり作中に描かれた様々なカタチの差別だとは思うんだけど、わたしも、最初は女性差別の揶揄をやった後、きっちり男性差別の揶揄もやりきってスゲェなーと思ったんだけど、
 そういうのはもっと造詣の深い専門的な人がやっていると思うので、わたしは作中に描かれたヒッピーについてネタバレ全開で語ろうと思う。




 こいつだ。ヤクのヤックス。

 どう見てもヤク中。血走った眼、伸ばし放題の体毛、そして全裸。
 彼の所属しているコミュニティはヌーディストたちの集まりであり、もっと自然のまま生きようと、服を着ないで生活している。
 そんな彼らの姿は、ヒトである我々から見たらごく自然な動物の姿で、そんな姿に『きゃあ!卑猥よ!!』となっているジュディが面白い、というギャグシーンなのだけど、彼らの姿はどう見たってヒッピーなのだ。


 ヒッピーとは、1960年代後半から70年代半ばにかけて全世界的に流行ったムーブメントである。

 キッカケはベトナム戦争だった。戦争を繰り返す物質世界に絶望した若者たちが『ラブ&ピース』を合言葉に、これからじぶんたちが築き上げていく世界を、よりよくするためにどうすればいいか考えた。
 英国でのキッカケは不況だったと思う。それまでは好景気でモッズという消費主義の申し子が遊びまわっていたが、不況により金回りがなくなると、新しい世代はモッズに懐疑的になった。もっと消費などしない精神的なアレでソレを求めたのである。
 なんにしろ、この60年代後半から70年代前半の若者は『これからの時代をオレが変える』という自意識でいっぱいだったように思える。
 そう、トライエブリシングで、誰でもなんにでもなれる、もっと自由な世界、ズートピアのような……!!そんな世界をじぶんたちで作るとやる気満々だったのである。


 そんなヒッピーのスタイルはすごく特徴的だ。

 物質を否定しているので、基本的にナチュラル。男も女もロングヘア。自然生成りの素材でゆるゆるファッション。つまりは森ガールの元祖である。
 または渋谷系の元祖ともいえるし、レゲェの元祖でもある。日本のフォークは思いっきりヒッピーの変化形だし、フォーク文化からは様々な芸能人が生まれた。他にもほかにもヒッピーからはじまった文化をあげればキリがない。
(いま流行りのEDMも源流はヒッピーなような気がするしのう)
 また、彼らは素晴らしい音楽文化を育み、69年ウッドストックでは40万人もの人を集めた。
 彼らの個性的なファッションは、いろんな形で今でも痕を残している。っていうか、上の写真は2015年あたりのファッションショーの写真で、ヒッピーファッションはバリッバリの現役。
 それは、彼らが目指した『新しい世界を作る』ということを見事成し遂げたように見える。
 『世界に花を』『ラブ&ピース』という美しい言葉通り、彼らは世界を変えたのだろうか?



 面白いのは、ヒトが社会を捨て、野生に帰ることで平和な世界を手に入れようとした一方、ズートピアでは野生を捨て、社会的になることで平和になろうとしていた。
 同じく平和を目指しているのに全くの真逆。そして、社会的になり平和を手に入れたズートピアで、今度は逆にヒッピー的思想のヤクやらゾウやらが表れるというのも、なんだかすごくヒッピーや『社会性』というものについて皮肉っているように思った。


 さて、ズートピア作中では、『夜の遠吠え』によって理性を亡くし、野生に帰った肉食動物たちが問題になっていたが、これもまたヒッピーの揶揄ともとれる。

 ヒッピーは物質世界を否定し、もっと自然まま生きれば争いもない、平和な世界が訪れると考えた。それで手を出したのがドラッグである。
 特に常用していたのが大麻で、そのダウナー効果によって精神統一を図り、精神世界を……ということだった。
 更に同時に唱えたのが『フリーセックス思想』で、従来の『男が女を所有する社会』というものを否定し『誰もが性に関して開放的に生きる』というものを信条とした。それはLGBTの先駆けでもあったし、男尊女卑社会を変えようとする画期的な考えでもあった。
 現在のLGBTの象徴がレインボーフラッグだけど、そのファッションといいおもいっきりヒッピーの影響を受けていると思う。


 けれど……ドラッグと開放的なセックス、だなんて語感から、いったい何を感じる?『ラブ&ピース』、感じます?世界平和を思いますか?
 むしろ、『大都会の底辺であえぐ若者の闇社会……』とか『大都会の裏側に巣食う犯罪的クラブ……』とかそんな都会的で、物質的で、欲望に充実で真っ黒な、そんな語感を感じませんか?
 もし、ヒッピー全員が思想通りに悟りを開き、社会から完全に離れてもなお生きられるブッダみたいな人だったらうまくいっただろう。
 しかし人間はそうじゃない。こと、若者においては、目の前にドラッグとフリーセックスを並べ立てられて平静でいられるわけがない。
 ヒッピーは一大ムーブメントだった。流行りだった。それゆえに、深くヒッピー思想について考えなかった者も多くいただろう。ただ、流行っているから、みたいな。
 ヒッピーの思想は、流行で扱うにはいささか難しすぎた。結果、ドラッグと音楽とファッションとセックスだけが残り、ただのセンセーショナルな若者文化と成り果てて流行の廃れとともに消えていき、最終的には怪しげな(ドラッグとセックスに支配された)宗教みたいなコミューンだけが残った。

 野生に帰っても、平和にはなれない。
 ズートピアの動物たちが『夜の遠吠え』を恐れるのは当然のことだった。
 わたしたちは生きづらくとも、社会の中で生きなければならない。


ズートピアは差別を主題にしているけれど、同時に野生と社会の物語であったように思う。生まれつき持ったものと、どのようにして折り合いをつけるのか?
 それは他人から見れば『差別』などになるけれど、自分で自分の『生まれつき』と向きあったとき、それは差別問題とは別のものになると思う。
 作中では、いろんな形で『生まれつき』を受け入れ……もしくはあきらめた人たちがたくさん出ていた。ニックもそうだし、ヒッピーのヤクとゾウ、ヌーディストのライオンたちも『生まれつき』を受け入れたひとつのカタチなのだろう。
 ジュディがヌーディストたちを前に顔を真っ赤に染めたのは、ハレンチな!という思いと同時に全くじぶんと真逆の思想に触れたのもあると思う。だから彼女は直視できないのだ。


 ヒッピー文化はカウンターカルチャーである。
 反政府的思想、あんまりお子様の目に晒したくない文化だ。特に現地のアメリカではその考えは顕著だと思うが、それをディズニー映画が取り扱ったということは大きな意味があると思う。
 原始、ヒッピー文化は『イージーライダー』で描かれ、そして最後は無残にも突然、惨殺された。それが、ディズニーにより自然にそこにいるものとして描かれている。
 ヒッピー文化はぶっとんでいる。社会を否定するカウンターカルチャー。でも、それが存在する社会でいいじゃない。
 ズートピア、ここは誰でも何にもなれるんだもの。
 わざわざ作中でヒッピーを取り扱ったのには、そんな、理性と野生の表現、そしてどんな思想も存在していいのだと、受け入れたカタチのような気がする。

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