思春期
最近、戦後の女性史にも興味が湧いてきて、1960〜2000年ごろまでに出版された女性に関するシリーズ本の一覧をGoogleスプレッドシートに入力している。
このエクセルやスプシに入力するという行為はわかる人にはわかる悦楽の行為である。
単純に穴をどんどん埋めていく達成感もそうだが、最初は勢いがあったのに途中から出版間隔が開いてきたり、担当者が変わったのか急に現実的になったり健康志向になったり変遷が見えて来るのも面白い。
とはいえ現物を揃えるとなると、バラバラの端本だし、ネットで売られるほどのものでもなかったりして意外と難しい。
そうこうするうちにNDLでデジタル公開されて読めたりもする。
わたしが注目しているシリーズ(厳密にはシリーズではないが)のひとつに読売新聞社婦人部が編集した一連の本がある。
実は自社で出版しているとも限らず、他社のシリーズの一冊を婦人部が編集している場合もある。
見回したなかでもっとも古いのは
『魔の手は延びる 誘惑の告知板』(森田書房、1931)。
駅の伝言板(というものが昔はあった。待ち合わせした相手と会えなかったときにメッセージを残す黒板)の周りでさまざまな犯罪が行われているという内容で、ここ↓で読めるのでご興味の向きはぜひ(要ログイン)。
ちょっと拙著『化け込み婦人記者奮闘記』のような、女性が書くルポルタージュである。
このシリーズ、婦人部編集なので男女関係、仕事、育児などテーマは多岐にわたるが、『12歳は大人である?』もなかなか面白い。
思春期にありがちな心理を解説した一書だが、反抗期、自己否定、ヒロイズム、ふくれっ面、恥ずかしがり、不良化、集団心理、性的衝動など、目次を見るだけで厄介さに頭を抱えてしまう。
そのなかで「強くなる潔癖感―大人はほんとに不潔だヮ」がふと目に留まった。
父親の友人が遊びにきて、思春期の娘に土足で踏み込むような質問を投げかける。
なんともおぞましい光景だが、若いみなさん、こんなハラスメントが日常に転がっていた昭和という時代をわたしは生き抜いてきたのだよ、と古老として語り継いでおきたい(さすがに我が母は相槌を打って喜ぶということはないが)。
これらにハラスメントという名前がつき、非常識な振る舞いとして看過されない現代のなんと素晴らしいことかとあらためて思うのだが、ふと、もしかして我々みんなが思春期化しているということはないだろうかと思ったりもする。
いや、もちろんセクハラ的言動は一刻も早く消えるべきだし、猥談めいた話で仲間意識を確認するホモソーシャルなおっさんたちは幼稚である。
しかし、他人の振る舞いに過敏になる、そのことだけにフォーカスすると、もしや我々は思春期で止まっているのかもしれないと思えてきたのだ。
思えば60年代ごろの映画やドキュメンタリーに登場する30代は今よりずっとしっかりしていた。
言葉を変えれば社会に順応していたとも言える。
順応というか迎合というか現実追認というか、あっさりと型に嵌っていたように少なくとも見えた(もちろん人によるが)。
当たり前にタバコを吸い、酒を飲み、麻雀をし、学校を出れば就職し、結婚し、子供を持ってマイホームを買う。
そこに疑問を持ったり反抗すればそれは「若い」「青い」とされた。
もっと多様な生き方があるはずだ、という今の時代の潮流は見方を変えれば精神年齢の低年齢化を如実に示す例かもしれない。
そう思うと、母親がデパートの食堂で空いた席を必死に探す姿に幻滅する「母親のあり方―下品に振舞うお母さん」の項は最近言うところの「蛙化現象」であったり、「劣等感は身体から―友だちと比べて一人悩む」の項は昨今の美容整形の流行と重なって見える。
「勉強の味がわかる―自分で〝考える喜び〟を知る」の項は大人の独学ブームを、「ヒロイズムに酔う時期―現実ばなれの英雄気分」の項はアメコミヒーロー映画の盛り上がりを想起させる。
そうか、みんな12歳くらいなんだ!
と思えば腹も立たない。
かもしれない。
【本日のスコーピオンズ】
44曲目「Busy Guys (Demo)」
5th アルバム『〜暴虐の蠍団〜Taken by Force』(1977)より。
(Demo)とあるのでもしかしてこれもリマスター版のみのトラックなのかな。
確かに荒削り感はあるけどいかにも蠍団っぽくていい。
サビがスキャットがなのもとても新鮮。
普通にいい曲!
感想は以上です。
神様、仏様!