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あのとき「変な人生」を選んでいたら。

私はこれまでの人生で、
「北に行くか南に行くか」のような究極の選択をした経験は少ない。

人から見れば、「え、本当にそうするの?」と言われることはあった気がするが、私の中では、「それしかない」「そうしたい」に従って、安易なあみだくじのような、道なりに沿った人生を送ってきたように思う。

ただ、1つだけ、
「あのとき、あちらの道を選んでいたら」
とたまに思いを馳せる、手放した選択肢がある。

私は、大学卒業後に中国の航空会社の札幌支店で3年働いたのち退職して上京し、
初めて訪れた秋葉原のメイド喫茶の接客に感動して、私も働きたいと胸をときめかせていた頃、秋葉原の事件が起き、震え上がった。
(犯人は同い年でさらにショックを受けた)

その後、大人しく新橋の就職ショップなどを利用し、再就職が決まりそうだった頃、以前の職場の取引先として、札幌時代から面識のあった、日系航空会社のグループ企業の方から共通の知り合いを通して連絡があり、アルバイトとして拾ってもらうこととなった。
(余談だが、札幌時代に営業で出入りしていたのは他でもない私の夫で、あ、ご無沙汰してます、って感じのマジで全く運命感じない出会いw)

本当に浅はかで考えなしで、自分のキャリアを積むという考え方もなかった。
せめて「契約社員で入れてください!」とか交渉すべきだったのだが、働けるなら、とりあえずいっか。時給もまぁ悪くないし、という、完全に腰掛けOLの発想で、でもどこか、同じ業界にまたいられることに安堵もし、その会社にお世話になることとなった。

そこから半年後に契約社員となったものの、旅行会社に対し、航空券の予約発券システムを導入してもらったり、使い方をレクチャーしたり、システムに関する要望を聞いたりする営業をしていくのだが、私の能力ではなかなかに苦しくて、さらに、正社員ならもらえるボーナスや住宅手当が、契約社員にはない。

能力が低いから契約社員止まりなんだ、だから仕方ないんだと自分に言い聞かせながら、自己肯定感はダダ下がりで、しかし大好きな課長が「そのうち正社員に」と言ってくれるのを、どうやってもありつけないニンジンを追いかける馬のように、走り続けた。

新規就航する航空会社の中国人支社長が来日することになったが中国語しか喋れないという前情報があり、社内の中国人社員は育休中。

上司から、「お前できるか?」
と言われ、システムのプレゼンに挑んだことも。

前日は1人リハーサルで眠れず、契約が決まった時は崩れて泣いた。

ボーナス時期に、みんなが海外旅行の計画を立てる中、私は奨学金の返済を考えて惨めさに押しつぶされそうだった。

東京生活、潮時か。札幌に帰ろうか。
しかし帰ってどうする?

色んな失敗をやらかしながらも、取引先のお客さんが、頼ってくれたり応援してくれたりすることが涙が出るほどありがたくて、この人たちのために私は働くんだと必死にモチベーションを保っていた。

そんなある日、耳を疑うような話が来た。

当時勤めていた会社は、部長以上の役職者は全員、親会社である日系航空会社の人たちで、子会社に出向しているという状況だった。

私がアルバイトとして入って半年くらいまで在籍していた総務部長が、航空会社の北京支店に転勤になってしまっていたのだが、その方からメールがあり、

「北京オフィスで日本人スタッフを募集しているのですが、よかったら来ませんか?厚遇いたします」

という内容だった。

当時、惨めさで心折れまくっていた私にとって「厚遇」という文字が頭から離れず、また、留学していた頃から憧れていた「中国で働く」という道が、思いがけない人から思いがけないタイミングで与えられたことに、飛び上がって喜んだ。

興奮して、すぐに母親に電話した記憶がある。確か、母も歓喜の声をあげたと思う。

そして、当時、なんでも話せる友達のような先輩が社内にいて、相談したら
「よかったね!!私は行くのがいいと思う」と背中を押してくれた。

腐りかけていた私の気持ちもわかってくれていたし、彼女自身も、会社を休職してフランスへワーホリに行きたいけど、年齢的に期限が迫っていると当時言っていたので、せっかくのチャンスは活かそうよ、と思ってくれたんだと思う。

当時27歳の私の頭の中は、もう北京へ行くつもりになっているのに、なぜか引き戻そうとする考えも浮かんでいた。

東京で一人暮らしで使っている家具や家電はどうするんだろう。処分しかないか。もったいないな。せっかく下北沢で買ったお気に入りの昭和家具が…手放さなきゃだめか。

あれ、私は、日本に帰るときは、札幌に帰るのか。えっ、東京は?寂しいな。

あぁ…もし北京で結婚でもしちゃったら?
そのまま北京の人になるのかな。それはそれでいいけど、親に何かあった時に、すぐに帰れないね…どうしよう。

脳内の声

そして、当時交際して半年ほど経っていた現夫。彼とは遠距離恋愛をしてまで続けないだろうと思った。彼が結婚を考えていることが痛いほどわかっていたし、私もなんとなくそのつもりだった。

「私がいなかったら、彼はどうなるの?一生1人なんじゃないか」
と思うとかわいそうで、見捨てられない。という思いも。←何様w

でも、北京に行きたい。
せっかくのチャンスなんだよ。
新卒で受けることすら叶わなかった会社の、他でもない中国のオフィスで働けるなんて…!

私は何を思ったか、以前の職場の、最初はいびられていると思っていた、でも退職時にはとっても信頼して仲良くなっていた3歳年上のKさんに、電話して相談することにした。

この記事に出てきた、1いえば10わかる、聡明なK先輩だ。

この先輩とは、上海に2人旅に行ったこともあり、心から信頼していて、大好きな人だ。

確か私は、東京メトロ丸の内線の地下のどこかで、彼女に電話し、迷いを全て打ち明けた。

すると、彼女は、開口一番
「やめときな」
と言った。

「え!なんでですか?」と驚いて聞くと、

「あんた、変な人生になっていいの?
中国かぶれして、もし日本に帰ってきても浮いた存在になるよ。変な日本人になって、居場所ないよ。
普通の、日本人としての幸せは、もうなくなると覚悟できる?」

「………!」

まともな人だけど、ぶっ飛んだ考えもある人だったから、
てっきり「よかったじゃん!行きな!」と言ってくれるとばかり思っていた。
背中を押してくれるとばかり。
彼女は中国の会社で働いているわけだし…

でも結局、私は、彼女の意見を採用した。

「変な人生になる」
というパワーワードが頭から離れなかった。

しかし、今思えば。
こんなに多様化、グローバル化した世の中、
中国に数年行ったくらいで、「変な人生」「変な日本人」になんてならないし、なったって別に誰も気にしないだろう。面白い人生だったんじゃないか。

でも当時の私には、色々なものを捨てて、中国に行くことが現実的ではなかったんだ。

それでも、今でも思い出してしまう、あのときのまばゆい選択肢。

だけど、あの選択をしたから、今出会えた人たちがいる。それならやっぱり、これでよかったんだよな。



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