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#62|広くて近くて今にも落ちてきそうな空③

1935年の同じ日 6時22分

 体はすっかり元に戻った。たぶん。この目の前の緑の光は点滅もしなければ消えることもない。外から話し声が聞こえてくる。遠くて何を言っているかは良く聞こえない。ドイツ語だ。つまりそれほど遠くまでは来ていないのだろうか。
 よく見るとこのフラスコ、マークが付いているぞ。色は分からない。この部屋は緑の世界だ。夏のアルプスのような気持ちのいいものではなくて父さんが好きそうな科学的な色だ。そういえば一度父さんにこのマークを見せられた気がする。このサイレンのようなマーク。中心に小さな円があって、そこから三方向に広がるように丸みを帯びた台形が伸びている。普段街でしょっちゅう見るマークではない。
 思い出したぞ。ああ、なんてことだ。どうしたらいいんだ。ああ、なんてことだ。思い出してしまった。そうか、そういうことだったのか。この「外の奴ら」は俺を殺そうとしている。これは放射線を表すマークだ。そしてこの緑の光にばかり気を取られていたが、このフラスコに当たるような位置に棒がある。壁から上に向かって伸びている。いや、これはフラスコを割るための棒だ。おそらく何らかのきっかけでこの棒が列車の線路を切り替えるレバーのように動いてフラスコに当たる。横方向に動く線路のレバーとは違ってこれは縦方向に動くようにできている。このレバーが降りてフラスコを割った時、十中八九俺は死ぬ。おそらくこのレバーは緑の光を発している機械に繋がっている。緑、つまり今はまだ安全というわけだ。
 なるほどな。これでどうやら俺は憧れていたミケランジェロに一歩近づけたようだ。最も彫刻家としてではなく皮肉にも大理石の中の天使だがな。見る方ではなく見られる側になってしまったというわけだ。見られる側。そうか、これは何かの実験だ。外から聞こえる声は科学者たちの声だ。重要なのはこれがどちらの実験なのかだ。既に理論が確立されている、単なる確認作業としての実験なのか、それとも理論を確立するための研究対象としての実験なのか。前者だとしたら俺の運命は既に決まっている。それが死なのか生なのかはわからない。だが、何をしようとも結果は決まっている。でももし後者だとしたら。まだ結論の出ていない研究だとしたら。生きる道は残されているかもしれない。いや、どちらでもいい。結果は二つのうちどちらかだ。生か死。その二択だ。
 父さんは結果を追い求めろと言った。ミケランジェロは運命に向かっていくだけだと言った。所詮は運命の奴隷というわけか。運命に従うしかない。結果はすぐ先にある。10分後か。1時間後か。もしかしたら5秒後かもしれない。科学者どもが何をしたいのかはわからない。ついさっきまでは眠っていたんだからな。眠っている奴隷ほど殺すのが簡単なものはない。だが俺は目を覚ました。もはや奴隷ではない。この部屋には閉じ込められているが、この危機を生き延びるのは簡単な事だ。いつこのレバーが降りてきたとしても、このフラスコを割る前に止めればいいだけだ。このフラスコの中身は危険なものに違いない。今このフラスコを動かすこともできるが、もし倒したり割ってしまっては何の意味もない。俺は手先が器用じゃないからそんな危険は冒さない。Bから始まる単語を考えるんだ。”Brot”、”Baum”、”Buch”、”Bank”、”bahnbrechend”・・・。
 よし、レバーの下に来たぞ。レバーのある壁とフラスコの間はかなり狭い。でもレバーが降りてきたときに受け止めるだけの余裕は十分にある。これくらいの余裕を残さないとフラスコを割るのに十分な速さに達さないはずだからな。俺の母親譲りの反射神経は抜群だが、念のためフラスコの上に手を添えておこう。少々疲れるが仕方ない。このままレバーが落ちるのを待とう。この部屋からの脱出方法はその後で考えればいい。
 あ!緑の光が消えた!レバーが落ちてきた!手は動かさない。大した速さではない。おそらく重くもないだろう。十分受け止められる!レバーが手の甲に向かって落ちていくのが良く見える。どうだ、科学者ども、俺は俺の人生を生きるんだ。段々腹が立ってきた。俺の命を何だと思っているんだ。言ってやる。聞こえるように叫んでやる。「Alles fühlt der Liebe Freuden!」よし!受け止めた!手の甲にレバーを感じる!やった!

ガシャン!

しまった。なんてことだ。嬉しさのあまりいつもの癖で尻尾を振ってしまった。

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