茶の心
大学生になった私はすっかり意気消沈していた。本当は大学を休学して少し休養をとるべきだったのだが、何となくレールから外れることが怖くて石にかじりつくようにして大学に通い続けていたのである。やはりここは何か新しいことを始めるべきだろうと私は考えた。まずはなにかサークルに入ろう。見学会の最中にはもちろん弦楽部にも足を運んだのだが、練習が毎日あるということで諦めざるをえなかった。当時私は自宅から往復に5時間はかかる学校に通っていたからである。そんな中、学科で仲良くなった友人が高校の部活で茶道を経験しており、一緒に茶道部に見学に行くことになった。茶道か。今まで茶席でお茶をふるまわれたことはあったけれど、本格的に習ったことはなかったので一度どこかで経験してみたいと思っていたのだ。しかもきけばお稽古が水曜の週1回ということで、私はすっかり乗り気になっていた。
こうしてミッションスクールの片隅にひっそりと佇む茶室にて茶道を習うことになったのである。流派は裏千家である。正直なところ習い始めの最初の頃はそのいちいちのしぐさが、その様式美がまどろっこしくて仕方なかった。抹茶をなつめから取り出す際にはなつめを手に取りまずは一ふき、その時用いる茶杓を三ふき、それを入れる茶碗を一ふきといった具合にいつになったらお茶を点てられるのだろうと私は茫然となった。覚えることがあまりに多すぎたのだ。平常の状態ならすんなりと覚えられてしかるべき事柄も、その当時の私の心模様ではなかなか浸透してくれなくて困ってしまった。結局週1のお稽古では足りずに私は本屋に駆け込んで初心者向けのテキストを購入し、家や電車の中でひたすらイメージトレーニングに励むことになったのである。こうして完璧な初心者ではあるが、ある程度お点前の全体像がつかめてくると私の考えは徐々に変わっていった。あの複雑怪奇にみえた手順の数々はすべて主人が客をもてなそうとする心の現れであること、あの動きの中には一切の無駄はなく、流れるようにすべてがつながって一つに集約していくことなどを感じ入った。
思想家である岡倉天心は『茶の本』の中でこう述べている。「茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現すことをはばかるようなものをほのめかす術である」と。あの簡素なつくりの茶室にも引き算の美学が発揮されており、私たちはその静寂の中にこそ癒しを感じるのだと。私も何か心を落ちつけたくて茶室に通っていたのだろう。物事の細部にこそ神はやどり、善行はそっと行われるべきである。結局2年生に上がる時にどうしてもとりたい課外授業が水曜日にあたってしまった為、茶道部をやめることになった。たった1年足らずの活動では何もつかめていないのも同然だが、それでも茶道のさわりぐらいはおさえることができて良かったように思う。
ある時私は自宅で書道を教えている女性と知り合いになった。私の書を掛け軸に仕立てて下さるというのでご自宅にお伺いした時のことである。立派な掛け軸が出来上がり悦に入っていたら、奥の方から声がかかった。お抹茶を飲みましょうと。簡易的なお点前セットでお茶を頂けるのかなと思っていたら、なんとその家には室内に茶室があり、きちんと窯を使って沸かした湯でお点前を披露して下さったのである。これには驚いた。このお宅はどうやら相当な芸術一家らしくお祖父さんは水墨画をされていたそうである。雅やかなお宅だな、芸術に触れながら生活するとはこういうことかと感じた次第である。
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