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二人の先生

 educate ①教育する ②養育する

     語源 ラテン語で(その人の 持っている能力を)引き出すの意 

 ある人と話をしていてお薦めの本を教えてもらう機会があった。その方はいった。『銀の匙』(中勘助)がいいのではないか、と。私はこの本のタイトルこそ知っていたが読んだことはなかったので、どうしてその本を薦めるのか理由をたずねてみた。その方の話によると灘校に以前変わった先生がいて、その先生は中学3年間の間この『銀の匙』のみを教材として授業を進めていたというのだ。それは本当に変わった先生である。そして余程腕に自信がないとそんな型破りな授業は行えないだろうと感じた。容易に想像できる。先生が生徒たちの為に一から授業を組み立てていく苦労やプリント作りに腐心する姿が。一言一句をおろそかにせず読み解き、どこまでも横道にそれて膨らませていく授業は、2週間に1ページしか進まなかったこともたびたびだったそうである。そのような授業を是非受けてみたいと思うと同時に、私は中学2年の時のある国語教師を思い出していた。

 その先生は変わっていた。まず名前が変わっていて、私たちはそれが彼の本名なのかと疑ったくらいである。先生は常に教科書とは別に薄い文庫本を携えており、授業の初めに10分の時間をとりその中から色々なお話しをして下さった。私は毎回その時間を楽しみにしていた。中には『くだんのはは』(小松左京)などの怖い話もあって、私たちは決して教科書にはのってこないようなお話しをめいめいに楽しんだのだった。そして一番感動させられたのが文法に関するプリントであった。なんと先生は手作りのプリントを使って授業を行ったのである。そこには文節を区切る問題としてこのような例文がのっていた。矢吹ジョー。人は彼を明日のジョーと呼ぶ。先生は遊び心旺盛な人だったのである。結局年度の初めに配られた問題集は全く手をつけられることなく、私たちはそのプリントのみで文法の学習に取り組んだのだった。一つだけではあるが、例文を覚えていたくらいだから私はその手作りプリントが余程うれしかったのだろう。また先生は授業の進め方も上手く、特に言葉の調べ学習には重点を置いていた。通常の先生のようにまんべんなくというよりも、先生独自の大切にしたい部分は前面に押し出してくるという授業形式だった。おおげさではなく先生の国語への愛とこだわりを感じた。そして生徒である私たちは先生から大切にされていたのである。

 教育者にできることは何だろうと考える。educateの語源が「引き出す」なら、現行の学校教育のほとんどはこのことの反対をやっている。本来私たちは「学び」ということに対して能動的に取り組んでいくべきなのだろう。その手助けをするのが教育者であり、彼らの務めである。逆に言うなら彼らにはそれしかできないのである。そのことを灘の先生もジョーの先生もよくご存じだったに違いない。彼らは総じて教育というものに対して謙虚な姿勢を貫いていた。私は今この『銀の匙』を購入して読んでいる最中である。灘の先生の心をそれほどまでに掴んだ作品とはどういうものなのか自分でも読んでみたくなったからだ。

 内容としては著者が自身の病弱だった子供時代を振り返るといったもので、ストーリー的な面白さを期待すると肩すかしをくらうだろう。そしておよそ100年前に書かれた物語であるから、現代ではみられないような表現も散見され、読むのにこちら側の能動性が試されるような箇所も度々登場する。よって毎日少しづつではあるが一文一文を味わうようにして読み進めている。ちょうど灘で行われていた授業を追体験できるという訳である。


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