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私が思っていたよりも偉大だった父について雑誌「創(つくる)」 に寄稿

2022年12月30日昼前、父がひとりで暮らす杉並のマンションにタクシーで乗り付けると、私は急いでいるにも関わらず、まず共有スペースにあるポストを確認しに行きました。たいてい空っぽかチラシがあるくらいで、そのときはそれどころではなかったのですが、いつも父が見てこいと言うから癖になっていたのです。多くの友人が先立ち、便りもなく、ネットも使わない父は、社会からすっかり孤立した「オワコン」のように私には映りました。しかし、その日は1通の便箋が入っていました。「創出版」の印字の下に「篠田博之」と手書きで添えられています。

雑誌「創(つくる)」に父の連載があるのは知っていたので、そのときは気に留めず、急いで7階へ上がり父の元へ駆け寄りました。同日の夜、掲出することになったのが前回の記事「父・矢崎泰久(ジャーナリスト/元「話の特集」編集長)永眠のお知らせ」です。

篠田編集長の計らいで、「創」2023年3月号(2023年2月7日発売)に父・矢崎泰久の追悼特集が組まれています。横尾忠則さん、中山千夏さんらに混じり、私も家族から見た父・泰久の最期について6ページほど書かせていただきました。1通の便りがきっかけで、長年、父が関与した雑誌(父の部屋には常に見本誌がありました)に私が書くというのは、感慨深いものがあります。上の文章はスペースの都合で誌面に載らなかったパートを再編集したものです。

「創」2023年3月号もくじ

父と家族との関係は複雑でした。10年以上別居しており、姉も私も独立しているので年に数回、会うか会わないかという感じでしたが、要介護となった約半年は、人生でも最も頻繁に会うことになります。前回もブログに書いたように、私は父の話が嫌いでした。とにかく胡散臭かった。しかし、いざ亡くなる前後、それらの話が、だいぶ誇張はされていたが事実であった証拠や証言者が続々と現れたのは、実に不思議な感覚でした(似たようなことを横尾さんも書かれています)。映画「ビッグ・フィッシュ」のテーマそのものという感じですが、“父子あるある”なのかもしれませんね。この映画、本当に名作なので、ご覧になられたことない方は、いつか是非。

要介護というのも世間のイメージとは、だいぶかけ離れた特殊な状況でした。平たく言うと、父は“とても元気”だったのです。オシャレして、食べ歩く。タバコを吸わなくなった以外、大きな変化はありませんでした(タバコについては、記事内で疑惑について触れています)。でも、裏では死を覚悟し、受け入れようとしていた姿があったことを篠田さんの追悼記事で知りました。このように、いろんな方の記事を横断的に読むと、点と点がつながっていき、どんどん引き込まれるのは、プロフェッショナルな編集だなぁと感心してしまいました。

父が篠田編集長に送った原稿に添えられていた手紙。「いつも最後と思って書いてます。」

中山千夏さん(幼少から私は父同様「チナちゃん」と呼んでいた)は、「週刊金曜日」にも父の追悼文をたくさん寄せてくださってますが、そのトーンがどれもチナちゃんらしくウィットに富んでいて、読んでいて父の笑顔(ときに苦笑い)が浮かびます。

父の最後の本となった「夢の砦」(和田誠さんとの共著)を編集してくださったシミズヒトシさんとは先日、東中野のポレポレで父の追悼イベントがあった際にご挨拶しました。父の最後を看取る様子を、愛情たっぷりに綴ってくださっています。

「追悼」という言葉が何度も出てきますが、父について書く人は、誰ひとり湿っぽい感じはない印象です。理由は、篠田編集長が書かれていましたが、父自身が友人・知人の訃報に対し、明るく表現してきたのが影響している気がします。人生はエンターテイメントという考えの人でした。

もうひとつ、入り切らず省略されたパートがあります。父が息を引き取った30日の夜にアップしたブログですが、これがきっかけでマスコミから電話が殺到することになり、私は人生で最も忙しい大晦日を過ごすことになりました。

まず訃報を伝えた相手について記事内で触れていますが、新聞社へ電話をかけるという頭が働かなかったのです。祖父(泰久の父)寧之が亡くなったとき、父が新聞社に電話していたのを中学生の私は見ていて、なるほど自分も父親が死んだらそうするのかなどと縁起でもないことを考えたものでしたが、「話の特集」もだいぶ過去の栄光となり、冒頭に書いた通り父を「オワコン」と思っていたので、すっかり抜けていました。

みくびって申し訳ないと感じました。同時に、生きてるうちに父の話をもっとちゃんと聞いておけばよかったと思いました。でも、父には話を聞いてくれる相手はたくさんいました。最後まで人に囲まれ、死してなお、ニュースになり、話題にされ、イベントが催されるのですから、どれだけ幸せ者でしょう。

記事は「泰久劇場の終幕」で締めていますが、私にとって終わりはありません。父は、資産がゼロ(どころかマイナス)の代わりに莫大な文章を残していますし、幼少の私に宛てて書いた手紙もたくさん出てきました。私はその存在すら忘れていたのですが、母がずっと取っておいたのを蔵から出してきたのです。世界中を旅した話も眉唾でしたが、いろんな国のハガキが出てきて、これまたビッグ・フィッシュだなと(笑)。いつの日か父の足取りを辿ってみたいと思っています。

リヒテンシュタインからの絵葉書

長くなりましたが、雑誌「創」2023年3月号、電子版もありますので、是非お読みいただけましたらと。エンターテイメントとして書いたつもりです。どうぞ、よろしくお願いします。


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