連載小説『舞い落ちて、消える』Epilogue.1(Side 藤井香織) 2007/12/10

2007年12月10日

 私は研究室から出てくる佑矢先輩を待っていた。もうすぐ卒業する佑矢先輩は論文の進捗状況を報告しにくるこの毎週月曜にしか大学に顔を出さない。今や時の人に近い先輩を大学以外で捕まえるのは至難の業だった。バイト先には特定の生徒の授業がある時以外は顔を出さないらしいし、家も何処かへ引っ越してしまったようだ。この半年近くで先輩を巡る環境は大きく変わってしまった。
 先輩は例の記憶喪失についての論文を書かなかった。夏に断りを入れたらしい。小堺教授が一時期愚痴を言っていた。それもすぐに言わなくなったと思ったら、何処かの大学の教授が記憶回復に関する論文を発表し、世間に大きな衝撃を与えた。その論文を私も読んだけれど、内容は佑矢先輩がやっていたようなものだった。噂でしか聞いたものでないから確信はないけれど、私はそう思った。一体どうしてしまったのだろう。佑矢先輩はどうして論文を書かなかったのだろう。そんなことを思っているうちに、今度はとあるネットブログが話題になった。「半自伝小説」と銘打たれたそのブログは中村佑矢と名乗る人物が記憶喪失になってしまった初恋の人の記憶を戻そうとする経緯が「episode」という題と共にナンバリングされ、日記帳に書かれている。出てくる人物は全て実名で、その中には私の名前も登場した。それは佑矢先輩が書いたもので間違いなかった。
 ブログは徐々に話題となり、この冬、出版が決まると、記憶回復の論文が話題になったことも相まって、一気にベストセラーとなった。佑矢先輩は時の人となり、多くのメディアが中村先輩に殺到したけれど、先輩は「半自伝小説」「半分フィクション」というだけで他には何も言わなかった。しかし全て実名で書かれたこの小説を面白く思わない人間も多く、インターネットの掲示板で先輩は多くの誹謗中傷に遭った。訴えられるのではないか、とも言われているけれど、今のところ具体的な動きはない。ただ学内でも色々と不穏な噂があることもあって、先輩はほとんど大学で姿を見せなくなった。

「佑矢先輩!」
研究棟から出てくる先輩に私が声をかけると、先輩はまるで予期していたように落ち着き払った様子で立ち止まる。
「先輩に訊きたいことがあります」
「訊きたいこと?」
「主に文句です」
それはどうも、と肩をすくめると、近くのベンチに腰を下ろした。
「あまり大学に長居したくないからね、手短にお願いしたいよ」
「それは出版した小説の件ですか」
知っているんだね、と言ったけれど、こんなにわざとらしいことはない。
「大学で知らない人はいないですよ」
それは光栄だね、と皮肉な表情をする佑矢先輩を見たことがなくて、私は少し戸惑う。
「ということは文句というのは君の名前を書いたことだね、申し訳ない」
今度は真面目な顔で謝る。どれが本当の佑矢先輩なのか分からない。
「けれど香織のことは悪く書いてないんだけど」
「良い悪いの問題じゃありません」
それはそうだ、とまた皮肉な顔をして真面目な顔をしてもう一度佑矢先輩は謝った。この顔のどちらかは違う。いや、どちらとも違うのかもしれない。
「どうして小説なんか出版したんですか」
「ブログが話題になったからじゃない?」
「そういう話じゃなくて、どうしてあんなブログを書いたんですか、ということです」
「書きたかったからだよ」
「論文にすれば良かったじゃないですか」
「論文というのは体裁が面倒だからね」
「小堺教授も悲しんでいました」
「年配者は感傷的になりがちだからね、でももう何も言っていないだろう?」
「他の人が研究発表しちゃったじゃないですか、先輩が書くはずだったのに」
先輩の研究は何処かの大学の准教授か何かに先を越されてしまっていた。少しだけその論文を見たけれど、研究対象は10〜20代くらいの女性数人だった。記憶を失った理由は恋人と別れた、というものから、家庭環境や性的暴行と重々しいもので朝美さんが入っているのか、いたとしてもどれがそうなのかはわからなかった。なんとなく恋人と別れた、というのが朝美さんなのかな、と思うことにした。
「それは違うな、僕は彼から教えてもらって研究ができていた。第一人者はむしろ篠塚先生だ」
「そうだとしても」
私がそこまで言うと、佑矢先輩は急にまたこれまで見たことないほど冷たい顔になった。感情の全てを何処かに忘れきたような顔だった。私が知る佑矢先輩ではない。私は一体先輩の何を知っていたのだろうか、という気持ちにさえなってくる。背筋が凍る。息を飲み、私は言葉を継げなくなった。
「ブログは書きたいから書いた、論文は書きたくなかった、それだけだよ」
先輩は立ち上がって校門に向かって歩き出した。
「半分フィクションとはいえ、随分恨みを買ってしまったからね、そろそろ帰るよ」
金縛りにあったみたいに固まる私はその背中が遠くなり我に還る。
「朝美さんの記憶は戻ったんですか」
「あぁ、もう大学院にも戻っている」
「会ったんですか」
先輩は答えなかった。それが答えだった。もう何も言ってくれないだろう、そう思って私も引き返そうと思っていると、先輩は最後に私に向かってこう言った。

「君が解き明かしてごらんよ、僕がどうして半自伝小説なんて書いたのか」
そしてまた歩き出した背中からこんな言葉が伝わってきた。

君にわかるのなら、と。
   

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