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連載小説『舞い落ちて、消える』Epilogue.5 2020/7/4②(最終回)

 紫陽花を持ったまま、僕は新宿の裏通りを歩いていた。自然と足があの駐車場に向いた。胸はざわざわするけれども、言葉にはならない。だからこの胸のざわめきも気のせいかもしれない。そこから歩いてあのクラブハウスに向かう。クラブハウスはとうの昔に摘発を受け、姿を消してしまった。けれどビル自体は残っていて、屋号が変わっていた。居抜きなのかどうかは知らない。もしかして箱が変わっただけで中身は変わらないのかもしれない。そんなことはわからない。けれど僕は過去の自分に語りかける。君は間違っていなかった、と。
 小説はあの1作だけと思っていたと思っていたけれど、あれをきっかけに他にも書くことができて、結局僕は小説家を続けることが出来ている。少しだけ形は変わってしまったけれど、僕は今、自分のやりたいことができている。

 香織に全てを明らかにされた日、僕は1つだけ言わなかったことがあった。僕はそれを誰にも言わなかった。香織はあの小説を『朝美にとっての半自伝小説』と言った。それは間違いじゃない。
 けれどそれだけじゃない。僕は朝美とのことで敢えて書かなかったことがあった。僕にとっても『半自伝小説』だったのだ。

 それは高3の梅雨。
 知里の件があって、もう随分と朝美と話していなかった。竹下との一件も全て終わった後だった。朝美との放課後の教室で一緒になった。降り出した雨で僕は帰ることが出来ず、教室で雨止みを待っていた。部活の生徒はもう部活に行ってしまったし、部活をやっていない生徒はとうの昔に帰ってしまった。図書館でもたもたとしていた僕は完全に帰るタイミングを失い、大人しく雨止みまで待つしかなかった。
 図書館に戻っても良かったのだけれど、何となくぼんやりと暗い空を窓越しに眺めていると、窓越しにぼうっと映る朝美の姿が見えた。僕は慌てて振り返る。朝美は一瞬入ることを戸惑ったけれど、他に行く場所もないし、ここで拒否をするのも気不味いと思ったのだろう。意を決したように、けれど極力動じていない様子で入ってきた。席に着いてノートを広げる朝美は何も言わずに明日の予習をしているようだった。僕も特段話すきっかけも内容もなく、かといって窓の外を見続ける気分にもなれず、僕は先程借りてきた小説を読むことにする。芥川龍之介の小説を読みたかったはずなのに、その鋭い研ぎ澄まされた文章が全く頭に入ってこない。その鋭さは感性ではなく、僕の心に物理的に攻撃をしてくる。この沈黙をお前は破らないのか、破れないのか、僕は追い立てられる。こんなことなら漱石を借りてくるべきだった。ロマンチックな台詞のひとつでも参考にできるかもしれないのに。太宰でも良い。太宰ならどんな状況でも女性との沈黙を破る一手を持っているに違いないのだ。
「中村くんは結局部活やらなかったの」
沈黙を破ったのは朝美の方だった。朝美はノートに目線を移したままだった。一瞬、僕に語られたものであるのかわからなかったし、幻聴かもしれなかった。返答に困っていると、今度は僕の方を見てもう一度同じ質問をしてきたので、やはり僕に向けてのものだった。
「あー、うん。うちの学校、軽音無いから」
「そっか、音楽好きだったもんね」
また一瞬の沈黙が走る。今度こそ何か話さないと、と思っていても、朝美には敵わない。
「どんな歌を歌うの」
「あー、GLAYとかサムエルとかGRAPEVINEとか」
「ゆずは」
「やらない」
「そうなんだ。自分の曲ってあるの」
「あるよ、たまに歌う」
そっか、というと僕の持つ小説に目をやり、
「中村くん、頭良いもんね。難しい本も読むし」
「頭の良さは音楽とは関係ないよ」
「頭が良いのは否定しないんだ」
「言葉のあやだよ」
ちょっとムッとする僕に朝美が微笑む。朝美が僕に向けて笑うのなんていつぶりだろう。コンクリートを打つ雨の匂いが教室を支配する。紫陽花の咲く頃に朝美と待ち合わせしていた匂いと同じだった。
「どちらにしても中村くんはそういうの向いてるよ」
「そうかな」
朝美はポケットから携帯電話を取り出すとさっと確認をして片付けを始めた。恐らく迎えが来たのだろう。うちの学校は携帯電話の持ち込みは禁止されている。朝美は守っていると思っていたけれど、どうやら僕の知る朝美とは少しずつズレがでているらしかった。
「私はね、世の中は『伝える人』と『伝えられる人』で分けられると思うの。その違いはハッキリとはわからない。でもそれは努力でどうにかできるものじゃなくて、雰囲気とか感じとか、そういうのでわかるの。私にはわかる」
カバンに荷物を詰めた朝美は立ち上がり、雨と一緒に言った。
「そして、中村くん、あなたは『伝える側』だと私は思う」
教室を出ようとする朝美を見ながら、僕はぼんやりとこれで最後なんだろうな、と思った。朝美と話すのはこれで最後だという強烈な思いが胸を支配して、僕は思わず立ち上がった。
「オレ、なるよ」
その声に朝美は振り返って立ち止まる。
「ミュージシャンでも小説家でも脚本家でも、芸術家でも、何になるかは全然わかんないけど、オレはなるよ、『伝える側』に」
そう、と微笑む朝美は世界の誰よりも美しくて瑞々しかった。朝美は雨だと思った。
「そして有名になったら、今日のことがきっかけだった、って言う」
「言うの?」
「いつになるかはわからないけど」
「その頃には忘れてるよ」
「忘れない」
「忘れた方が良いよ」
「20年でも30年でも覚えてる」
「それは…重いなぁ」
「それじゃ18年。今の倍生きるまでは覚える。そしたら忘れる」
朝美はそれを拒否しなかった。
「じゃあ18年後の今日には忘れていてね。今日の日付は忘れない?」
「忘れるわけないだろ、だって今日は」


 高校時代に朝美と話したのは僕の予感どおり、あの日が最後だった。そして大学でも話すことなく、朝美が記憶を失うまで、僕は朝美と接点を持つことは無かった。そして約束の日が明日になった。僕は36歳になった。朝美も明日で36歳になる。朝美が歳を重ねる前に、僕は約束どおり朝美を忘れることにする。
 手に持つ紫陽花の香りを吸い込む。雨の香りが僕の中を埋め尽くす。 雨の匂いがする季節に生まれたかった。改めて僕はそう思った。オレンジ色の空から夕立が庭の土もアスファルトも屋根も街も全部濡らして、その後に残った少しまとわりつくような空気の中、濡らされた様々なものたちが放つ香りが混ざった、あの匂いが好きだった。僕は朝美の生まれた季節が好きだった。そんな簡単な理由から目を背け、最もな理屈で言語化できない自分を正当化した。肝心なことは言葉にできないんじゃない、僕が言葉にしなかっただけだった。

「僕は朝美が好きだった」

言葉にするとこんなに僕を表すものは無かった。忘れる直前にようやくわかった。僕は朝美が好きだったのだ。朝美の関わる世界の全てが好きだったのだ。

 これで忘れられる、そう思った。もう朝美の記憶は塗り替えられている。朝美にとって思い出したくない記憶も、僕が誰にも言わなかった思い出も、もう朝美の中には無く、僕の中だけにあるものだった。今日まで僕が引き受けていた記憶だった。今日、僕はこれを忘れる。僕が忘れたら世界からその記憶はなくなり、事実が完全に変わる。僕だけの持つ真実は時間に埋もれ、やがて僕と朝美という存在だけが残る。朝美はとうに朝美の未来を歩き、新しい事実に積み重ねる。僕は今日から新しい事実の上にこれからを積み重ねていく。朝美のいない、朝美に拘らない未来を。
 
 さよなら、呟いた僕は紫陽花の花弁を手に掴むとそれを宙に放った。薄紫と白のコントラストが歌舞伎町の湿った空気の中を舞っていく。周囲から笑い声が漏れ聞こえる。何やってるんだ、と中傷じみた声も聞こえる。けれどこのコントラスの世界は僕だけのもので、その声は概念になって消えていく。そして風景も消えていく。世界は今、僕と記憶だけになった。
 声が消え、風景が消え、僕は記憶にもう一度さよならを告げる。薄紫と白のコントラストは段々と高度を低くし、やがてそれもきえていく。花びらが舞い落ちて、消えると、その後に消えていた風景が戻ってくる。僕の耳にも声が戻ってくる。

 不意に僕の名前を呼ぶ声がした。聞き馴染みのある声だった。
 きっと彼女の声だ。
 振り返った先に彼女が立っていた。

                                       (了)

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