連載小説『舞い落ちて、消える』episode.42 2007/5/11

2007年5月11日

 夕方、少し早めに塾に到着する。昨日さくらとそう打ち合わせたからだった。さくらは既に到着しており、僕らはバックヤードのロッカーに向かう。着くなりさくらは再度僕に謝ってきたけれど、僕はそれを制した。僕はさくらに感謝する理由はあれど、さくらから謝罪をされる謂れはないのだ。朝美を一晩泊めてくれただけでも本当に感謝すべきだったし、それ以上を求めていなかった。
 ここに到着する少し前に朝美の母親から電話が入り、朝美が家に戻ってきたことを報告された。そうだろうとは思っていたけれど、思ったよりも早い帰宅に僕は安堵した。もしかすると朝美の背後にいる人物が少しばかり朝美を拘束するかと思っていたけれど、そんなことはしなかったようだ。朝美が戻ってきたことを告げると、さくらは目に見えるように安心した顔を見せる。
「それにしても朝美さんは昨日何処に行ってしまったんでしょうか」
さくらは口にした後に自分の質問が適切ではないとすぐに気づいた。
「そもそも朝美さんは誰の手助けで東京に来られたんでしょうか、帰りのチケットまで用意されて」
これが正しい質問で、さくらは二度目にはその質問に辿り着いていた。僕にはそれが誰かという確証を持つことが到底できなかったのだけれど、福岡に戻ってから朝美たちに接触を図ろうとしてきた人物の影について説明した。
「それではその原田深雪という人が朝美さんを裏で動かしているということですか」
「多分そうだ」
「けれど何のために」
その原田という人物が実在して、これまでの混乱を引き起こしているのなら、その理由はまだ何も分からなかった。朝美を混乱に陥れただけでなく、朝美を危険なクラブバーに導いた。これだけを考えれば朝美への怨恨のような気もする。しかし、それにしては行き帰りのチケットを用意するなど手厚さを感じる。朝美の母親には朝美の記憶が戻るよう助言を加えることもしている。単なる怨恨とは考えにくい。そもそも母親への連絡は男が1回、女が1回と別人物が行っている。原田深雪を女性と仮定するならば、このもう1人の男の存在が分からない。もしかしてこの2人は別々に行動していて、全く動機も何も違っているのではないだろうか、全てを1つにすれば複雑になりうるが、それぞれが別の動機を持っているとすれば複雑さはなくなる。そちらの方が現実的ではなかろうか。
「でもそんな人が何人もいるんですか、偶然に、同時期に」
それが問題だった。複数の人間が別の同期で動いているとすれば、それで行動の矛盾は解決できる。けれど、そんなことが本当にありうるのだろうか。そもそも朝美が記憶を失っていることを知っている人間は僕が知るだけでもほとんどいない。朝美が事件に巻き込まれたということは、地元のニュースでは少しばかりやっていたから、大学内ではそこそこ知られてはいたけれど、記憶を失ったことまでは知られていない。何処からか話が漏れていたとしてもたかが知れているだろう。僕は朝美の大学内での交友関係を知らない。歴代の彼氏のことは何となく噂で聞いてはいたけれど、どういう経緯で付き合い、そして別れ、誰と友達で、誰と友達のフリをしながら仲が悪いのか、というその全ての繋がりを僕は知らなかった。だからもし誰かが朝美のことを良く思っていなかったとしても、僕はその人物が誰で、連絡をする手段を何も持ち合わせてはいなかったのだ。
「とにかく、オレはオレのできることをやるしかないんだ」
僕はそう告げると、さくらも同意して僕らの話はそれで終わった。記憶を失った朝美とも繋がりが薄れてしまった今、僕に何ができるかは最早分からなかった。もう無いのかもしれなかった。

「佑矢さんは私にずっと勉強を教えればそれで良いんだよ」
僕の悩みは全く違う質問に返答した鈴によって一つの結論を出された。
「オレだっていつまでもここに勤めているわけじゃない」
「私だっていつまでもここで生徒をしているわけじゃないですよ」
「なら『ずっと』は無理だろ」
「別に授業はここでなくてもできます」
さらりと恐ろしいことを言う鈴に僕は感心してしまう。もし僕が学生時代にこのくらいのことを朝美に言えていたら、僕たちの関係は違ったものになっていたのかもしれない。
「オレはまぁそれでも良いかもしれないけれど」
「良いんですか」
「ものの例えだ」
身を乗り出す鈴が膨れっ面で身を元に戻す。
「君はこれからこうしてオレのところに来続けることは難しいだろ」
「どうしてですか」
「人生はオレを基準にまわっていない。君の都合は君が大人になるに連れて増えるよ」
「そんなに増えるんですか」
「増えるさ」
「佑矢さんも?」
「オレにも都合は多い」
それはそれは、と畏まった言葉遣いで
「そんなたくさんの都合の中で私に勉強を教えてくれてありがとうございます」
「給料が貰えるからな」
「愛として受け取って起きます」
「愛じゃない、salaryだ」
今日は鈴のペースで話が進んでいく。これまでもそう言うことはあったけれど、今は自分で自分を制しないとそのペースに飲まれそうになっていく。
「salaryも愛です」
哲学的だな、と言うと、単純ですよ、と返された。
「安心してください、私はsalaryがなくても佑矢さんの都合に合わせます」
何を安心すべきなのかちっとも分からなかった。
「どうしてそこまでするんだい」
そんなの、と笑うと、鈴はそのまま言葉を削ぎ落とすことなく放った。
「好きな人のために行動するなんて当然じゃないですか」

返答に困っているとポケットの中でバイブが鳴った。仕事中はカバンに入れているはずの携帯電話をポケットに入れたままになっていた。僕はこれは良い、とすぐに戻ると言いロッカーに引っ込んだ。メールは佐藤さんからだった。
「竹下の現在の居場所がわかったぞ」
僕の心臓音は急速に鳴り始めた。


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