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ぼくたちはなぜ歩くのか、について

♦30をすぎたら昔のことばかり考えるようになった

 30歳を境に心が軽くなった。それまで悩んでいたことがどーでもよくなり、いまだに人生は路頭に迷っているのにもかかわらず、鼻歌でも歌いたい心地である(実際歌っている、という説もある)。

 心境の変化というのはもっと劇的に起こるものだと信じていた20代だった。しかし、現実に起こったそれはなんともフワッとしていた。きっとこういうフワッを捕まえるために文学があるんだ。

 そういえば小説の神様たる志賀直哉は『暗夜行路』と『和解』で二度、“許し”という心境の変化を描いているが、20代の僕が読んだ当時の感想は「フワッとしているな」だった。

 そして、今僕は昔のことばかり考えるのである。考えるのはたいてい音楽を聴いているときだ。懐かしい曲を聴いた時だけでなく、新譜を聴いても思うのである。あ、これ「あの頃」っぽいな、と。

 まあこんなのは誰にでもある体験だ。センチメンタリズムだ。とはいえ気になるのは、記憶の中の僕がいつも歩いている、ということなのだ。東京や神奈川の道路を、夜も昼も、ひたすら歩いている。

 その頃、僕は映画の専門学校に通っていた。映画をつくっていたのだ。これはどういうことかというと、ある観点から言えば「どんな学生よりも最高に遊んでいた」し、別の観点から言えば「貧乏奴隷」だったということである。

 これを「ああ、映画の奴隷って意味ね」と捉えてもらっても構わないが、僕としては、もっと荒漠としたあてのない、時折「ああああー」とでも叫んでしまいたくなるような「何か」だったと言いたい。

 この時代に、僕はひたすら歩いた。終電を逃して、あるいは、ロケハンのために。金はなかった、グーグルアースは今ほど発達していなかった、自動車免許は持っていなかった。歩いた。

 でもこれって、たぶん今の学生なんかもそうなんじゃないか。映画つくってなくても、たいていの若者は歩かされる運命にあるんじゃないか。ありあまったエネルギーの使い道って、歩くことくらいにしか使えないし。

(え、エネルギーは恋愛に? ははは、なんですか恋愛って、新しいパンの名前ですか?)

 それで僕はいま30歳で、かつて程は歩かなくなった。歩いていた頃を思い出して「なんでだろうな?」と考えるようになった。きりがないので、「帰る場所が無かったからだ」などとまとめて寝るようになった。

 寝入りばなに「じゃあ今はあるのか?」と問いが返ってきたりする。



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