感情と記憶と信用取引

今朝、息子のお弁当の準備を手伝った。
茹でたヤングコーンを熱したフライパンに転がし、
頃合いを見計らって醤油を垂らす。
そして、焦げ目がつき始めたらガラスのボールに移して、冷めるのを待つ。

会いた時間にフライパンを洗う。
ヤングコーンを茹でたお湯をフライパンに流し込むと、
醤油の焦げた香ばしい香りがあたり一面に広がった。
醤油を付けたどんどん焼きのお団子の香りを彷彿とらさせる。

思い出の懐かしさには、少しばかり悲しさが伴う。
ちょうど今頃の季節、木の枝に団子を刺して、
子供会が用意した焚き火に兄弟で向かう。
上手に火に当てられずに、焦げた団子や、半焼けの団子が入り混じる。
家に帰るとそんな団子に醤油をつけて、ストーブで焼いて食べるのだ。
そのときの醤油の匂いにそっくりだった。

昔を懐かしむとき、
もうそれは過去のことで、
その時に戻ることはできない。

どんなに望んでも、手を伸ばしても、
戻ることはできないのだ。

だから、懐かしさには、悲しみが入り混じる。
よい思い出であれば、よい思い出であるほど、
悲しみが入り混じる。

喜びは、いつか手放さなければならない。
時間は過ぎていくし、年はとるし、街並みを変わっていく。
そして、その喜びを、後で懐かしむとき、
そこには、そっと悲しみが入り込んでくる。

株の取引に信用取引というものがある。
端的にいえば、お金や株を借りて取引を行うものだ。
買ったものは、いつか売らなければならず、
売ったものはいつか買い戻さなければならない。
人生の感情は、信用取引のようなものだと思った。
得た喜びは、いつか手放さなければならず、
一時の苦しみは、いつか癒される。

いつかあの世に行く時、
私は、この世から離れることを惜しんで死ぬのか、
昔を懐かしんで悲しみながら死ぬのか、
それとも、苦痛からの解放として喜びながら死ぬのか。
それは、その時にならないと、わからない。

今は、フルレバレッジをかけて、喜怒哀楽に振り回されよう。

お読み頂いありがとうございます。記事が役に立てばうれしいです。このエリアまで読んで頂いた方が、これまでもこれからも幸せでありますように。