無意識の美学か自由意志か

歳をとったと感じた。
自分の言動で、相手にとって自分が今後影響を及ぼす存在になると確信したとき、
思いとどまって、それが起こらぬように動いた自分がいた。

野生の勘は当たるものだ。
完全に確信的に、何かが生まれる状態だった。
もしくは自分がそう望んでいる状態だったのかもしれない。
下心とかじゃなくて、もっと広い意味での出会いとその先の、なにか、自分にも相手にも、ある何かを感じた。
のに、自ら何もないようにしたのは初めてだった。


思い返す。
自分がどんな真理だったか。
相手が高校生とか、自分が既婚者子持ちとかゆう属性を気にしたのだろうか。
他愛ない会話が、面倒くさかったんだろうか。
確信したとか言いつつ自分に自信がなかったんだろうか。
一時的なチヤホヤかもしれない浅はかな自分を見計って、いかにも無垢な相手を蔑ろにしまいと守った結果だったのであろうか。
とにかく全てが確信的だった。

昔は違った。
自分の心を疑わず、気持ちよく素直に動いていた。
相手からの自分の見られ方については、よぎることがあったかもしれないけど、確信してるしてないの認識もなしに、流れに身を任せていたと思う。
つまり、以前は止まらなかったのだ。

今の自分は全てが作為的だと思ってしまう。
流れを流れとして感じてしまっている。
流れに身を任せようとか、ちょっとこの流れは止まるべきだとか。認識してしまってる時点で、以前とは違う。

まてよ もしや

これは、良い前兆なのだろうか。
もしやこれが、俯瞰というやつなのだろうか。
この先に、もしかしたら
自由意志があるのだろうか。

今はとてもやるせないし、何かと自分のしたチョイスについての不安に包まれてばかり。
選んだ道をデフォルトで明快に気持ちよく進むということができるようになるのだろうか。

私は絶賛進化中かもしれない。進んでいるんだ。
もちろん、進化が必ずしも良いというわけではない、
良し悪しじゃなくて、時間的な経過的な話で。
昔をもとに、私は確実に進んでる。


そんな東京から横浜までの電車で揺られながらのひととき。

がんば、受験生。合格してもしなくても、君とコギプルと君のお母さんが穏やかに過ごせますように。
次会えちゃったら絶対マブだ。

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