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「どうやったらそんな風に育つの?」という質問に対する答え(後編)

前編では、私の子育てにおける基本的な立ち位置を紹介した。後編では、子どもたちの様子や親としてのスタンスなどについて、具体的に書いていこうと思う。


それぞれの道を行く子どもたち

子育てにおける自分の立ち位置がはっきりした私は、「どんな風に育てよう」とあれこれ考えるというより、「どんな風に育っていくのだろう」と、わくわく期待の目で子どもたちを見るようになった。

親があれこれ手出し口出しをしないだけでなく、「何をするんだろう」と目を輝かせて見守っていると、子どもたちはステージを用意されたアクターの如く、自分たちのやりたいことを存分に表現し、実行するようになる。

「人生を狂わします」と宣言した息子は、他にもいろんな宣言をしている。「受験勉強はしません」とか「就活はしません」とか。

で、さっそく「人生を狂わせてやる」的な行動として、通っていた公立高校を辞め、通信制の高校へ転学した。

そして、自由になった時間を利用して、平日から全国各地のさまざまなIT関係のイベントに参加したり、大学院や企業を訪問したり、すごい勢いでたくさんの人に会うようになった。

自由な時間が増えた分、もうやりたい放題。しかし、とても充実しているようで、確実に自分の世界を広げている。

そして、長男だけでなく、次男も負けず劣らず自由な生き方をしている。

次男は、現在囲碁のプロ棋士を目指して勉強している。「囲碁」をやるようになったのも、もちろん親の勧めではない。たまたま家に碁盤と碁石があり、「ヒカルの碁」という漫画読んだことをきっかけに、囲碁に興味を持った。「ヒカルの碁」の別冊に棋譜(囲碁の対局を数字で全部記録したもの)が載っているものがあり、それを見て自分で碁石を並べるようになったのだ。

うちには囲碁を打てる相手がいないので、次男は仕方なく【自分対自分】で囲碁を打つようになった。「囲碁って、本来は誰かと打つものだよね?」と気づいた私は、次男に「囲碁を打てるところに行ってみる?」と聞いてみた。近くの囲碁教室に行き、試しに先生と打たせてもらうと、先生は「どこかで囲碁を習いましたか?」と。「いいえ、家で勝手に打つようになっていました」

ちゃんとした「囲碁」の形になっていたようで、先生も驚いていた。次男は、誰にも教わることなく、いつの間にか勝手に囲碁のルールを覚えていたのだ。子どもが、ただただ純粋に興味を持ち、そこに手を伸ばしていくときの集中力や吸収力は、目を見張るものがある。

囲碁界はかなり特殊な世界で、プロになるには、若けれは若い方が良い、と言われてている。義務教育が終わるのを待ってから…という訳にもいかず、学校を休んでまで囲碁の勉強をしているのである。長男と同じくこちらも「受験勉強はしません」宣言である。

私が質問を受ける「そんな風に」というのは、グランプリを獲ったということだけではなく、こんな自由な二人の生き方を指しているのだと思われる。世間一般の子どもたちの多くが、学校、部活、習い事、塾中心の生活を送り、受験→進学→就職といったコースを走っているのに対して、それらを無視した形で「子どもたちがやりたいようにやっている風に」という意味だ。

人生を狂わせている長男も、囲碁を選んだ次男も、それぞれ勝手に自分の道を見つけてきて、そこをどんどん歩いていく。人生の舵取りをしているのは、彼ら自身。私達親は、いつもその後をついていくだけだ。

親としてのスタンスは「伴走者」

子どもたちはやりたいようにやっているとして、横に居る親はどんな風に関わってきたのかを振り返ってみる。親としては、当然ただの「傍観者」ではなく、私も夫と子どもたちをサポートし応援してきた。イメージとしては、運動部の「マネージャー」的な役割といったところだろうか。

前を走っているのはいつも子どもたち。私達親はいつもその少し後ろを伴走していく。「頑張れ」と声を掛けたり、水や食べ物を差し出したり、時にはもっと走りやすい環境はないかなと、いろいろ調べてその情報を提供したり。

あくまで主役は子どもたちなので、こちらが先導をしたりはしない。前を走る子どもたちを見て、「頼もしいな」と思うことも多いが、一方で、彼らの走る道が間違っていないか、不安になることも多い。

特に、彼らが周りの子どもたちと全然違う道を走り出した時、正直に行って、私はワクワクした気分と、この道で大丈夫だろうかと不安な気分と半々になった(夫の方は、そんなに不安を感じていないようだ)。でも、それは私の生きてきたわずかな経験の中での判断なので、結局何が正しいのかは誰にもわからない。

それに、実際のところ、心配するという行為は、子どもたちにとっては全く実益がない。彼らにしてみれば、信じて見守っていてくれるのが、一番良いに決まってる。

ということで、ウチでは私があれやこれやと心配するのは、子どもたちのためではなく、あくまで「私の趣味」ということになっている。なので、私は、自由に存分に心配をし、子どもたちは、それをさほど気にもとめていないようだ。

「自分で考え、決定させる」子育て

「子どもたちがやりたいようにやる」とは、子どもたちが自分で考え、決定するという意味だ。もちろん、「すべてのことを」というわけではなく、年齢や発達に応じて、できる限りの範囲で、彼らの考えや選択を尊重してきた。

「子どもの考えや選択を尊重する」。こんな風にさらっと文章に書くと、簡単なように聞こえるが、これがなかなか難しい。実際には、最低でも次のようなことが揃っていないと、親の言うとおりにさせておいたほうが楽、ということになる。

・子どもの心身の発達についての知識(どこまで任せられるかの判断)

・子どもとの信頼関係

・子どものやりたいことが実現できるための環境づくり

・他人と違うことをすることによって、周りになるべく迷惑を掛けないための関係各所の調整

・子どもに自ら考え、決定させる力をつけさせること

等々、いろいろと親の仕事が増える。私はこれを「進んでやりたい」と思っていたので、何一つ苦痛に感じることはなかった。しかし、正直面倒だなと感じる親御さんも多いのではないだろうか。

実際にこのやり方を運用するにあたって、私が準備してきたこと、学んで来たこと、悩んできたこと、失敗してきたことは山ほどある。これからおいおい書いていこうと思う。

子育てに正解はない

ここまで書いて気づいたが、私は何も自分がやってきた子育てを推奨している訳ではない。冒頭に書いたように「どうやったらそんな風に育つのか?」という問いに対して、「どうやったか」を回答しているだけである。それが正しいのか、正しくないのかは誰にもわからない。

子育て支援の活動をしているので、普段から色んなテーマについて、親御さんたちと話し合いをしているが、いつも決まってたどり着くのが「子育てに正解はない」ということ。

子どもも一人ひとり違い、親も一人ひとり違う。世の中には、色々な子育てのやり方があって、どの親も毎日悩みながらその子、その親にしかない方法を探っている。

私が書けるのは、「私たち夫婦と私の子どもたち」というただ一つの例について、こんな風に考え、行動してきたということだけ。それを、「何かの参考になれば」と差し出しているに過ぎない。そのことを踏まえた上で、さらに興味の湧いた方は次の記事へと進んでください。


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