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「どうやったらそんな風に育つの?」という質問に対する答え(前編)

最近よくこの質問を受ける。いろいろと自由に活躍している息子たちを見ての質問だが、つまりは私がやってきた子育てについて聞かれているということだ。なかなかその場ではうまくまとまった答えを返せずにいたのだが、何を隠そう私は(一応)ライター。私たち親子に興味を持って質問してくださった方への感謝と、自分のここまでの子育ての振り返りとして、自身の子育てについて書き記そうと思う。


「人生を狂わせていきます!」と宣言した息子

「どうやったらそんな風に育つの?」と聞かれるようになったきっかけは、高2になる息子が「LINE BOOT AWARDS 2018」というプログラミングの開発コンテストでグランプリを獲ったこと。学生対象のコンテストではなく、社会人や大学生など、ふだんからIT界隈でブイブイ言わせている方々に混じっての受賞だった。海外からの参加も含め、エントリーは1125もあったというから驚きだ。

コンテストは東京で行われていたので、私は大阪にある自宅のPCで夫が配信してくれる会場の様子を見ていた。授賞式も最高潮に盛り上り、いよいよグランプリの発表。さすがに息子が選ばれるとは思っていなかったので、息子の作ったプロダクトの名前が呼ばれた瞬間、びっくりして椅子からころげ落ちそうになった。「ウソでしょ?」と思わず口にしながら、なんとか正気を取り戻そうと画面を見た。ステージに引きずり上げられた長男が上気した顔でマイクを握っている。

「人生が狂ってしまいました。これからはもっともっと人生を狂わせていくので、よろしくお願いします!」と声高らかに宣言する息子。「ヒュー、ヒュー」と煽るオーディエンス。何かのショーを見ているような感じで、私は一観客として、ぽかんとその映像に見入ってしまった。これは本当に私の息子だろうか。

私の知っている息子は、朝起こしても全然起きなくて、整理整頓が全くダメで。学校のプリントがカバンの中でめちゃめちゃになってて、しょっちゅう電車の乗り換えを間違っている、ちょっとドジな、でも優しい高校生なんだけど…。

コンテストはなんと賞金が1000万円(実際は同率得点で2チームがグランプリということになったので500万円)というM-1レベルの金額だったこともあり、その後、長男は学校でちょっとした有名人になった。

また、長男は昨年このコンテストだけでなく、「未踏ジュニア」という若いクリエータをサポートするプログラムにも参加。「未踏ジュニアスーパークリエータ」に選出されるという、なかなかに華々しい1年を過ごしていた。

親があんな風に「育てた?」

その後、私はあちこちで「どうやったら、あんな風に育つんですか?」と聞かれた。また、「天才の育て方」といった取材の申し込みが来たりもした。こういう場合、親にも関心を持たれるんだ。

そりゃそうだよね。子どもを育てたのは「親」だもの。息子がなんだかすごいことになってるのは、「親がそういう風に育てた」からだと思われても仕方ない。

ただし、これだけはどうしても言っておきたいのだけれど、私の中には「私や夫が彼をこんな風に育てた」感が正直言って全くない。息子たちはそれぞれ勝手に好きなことを見つけ、自分たちの都合で頑張ったり頑張らなかったりしているだけ。なので、私の感覚としては、もっと傍観者的で「へぇーこんな風に育ったんだ」という感じなのである。

子どもとの埋められない「距離」

「傍観者的」といのは、私の子育てのスタンスを端的に表している。妊娠中から出産、子育てを通じて、私は「自分の子どもだけど、自分の子どもではないような感覚」ような感覚をずっと持っていた。

その違和感に関して、ズバッと射抜いてくれた「詩」があるので、ここで紹介したい。

「子どもについて」ハリール・ジブラーン(レバノンの詩人)より

あなたがたの子どもたちは
あなたがたのものではない。
彼らはいのちそのものの
あこがれの息子や娘である。

彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
あなたがたから生じたものではない、
彼らはあなたがたと共にあるけれども
あなたがたの所有物ではない。

あなたがたは彼らに愛情を与えうるが、
あなたがたの考えを与えることはできない、
なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。

あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが
彼らの魂を宿すことはできない、
なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでおり、
あなたがたはその家を夢にさえ訪れられないから。

あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが、
彼らに自分のようにならせようとしてはならない。
なぜなら命はうしろへ退くことはなく
いつまでも昨日のところに
うろうろ ぐずぐず してはいないのだ。(略)

女性の場合、子どもは「自分が産んだ子ども」なので、「自分のもの」であるような感覚を持ちやすいのだと思う。でもよくよく考えたら、子どもを授かったことに始まり、妊娠、出産を通じて身体に起こるさまざまな神秘は、「私のもの」を遥かに超えている。

泣き止まぬ自分の子を抱きしめた時、小さな体をのけぞるようにして反発してくる強い意志の強さにハッとしたり、私の知らない場所で、見たこともないような表情で友達と遊びに没頭していたり、思春期とはいえ、自分の子どもの心が全く見えず、何とも言えず寂しい気分になったり、と自分と子どもとの距離は、いつもいくらかは決して「埋まることなく」存在している。

この詩を読んだ時、自分の中にあった違和感がすっと消えた。「自分の子であって、自分の子ではない」んだ。

子どもとの埋められない距離を感じることで、逆に子どもを無理に理解しようとしなくても良いのでは、と思える。そして、自分とは全く違う一人の人間として子どもたちが何を考え、どう生きるのか、その事に興味が湧くようになった。

子どもは「自然」

もう一つ、私と子どもとのスタンスを決めることになったのが、養老孟司氏の著書「逆さメガネ」にある「子どもは自然」という説。

種が芽を出し、花を咲かせ、実をつける。幼虫が蛹になり、成虫に姿を変える。自然の営みは見事なまでに遺伝子にプログラムされていて、何か外からの意思でそれらが進められているわけではない。

子どもが育つ過程も、自然の中にあるさまざまな営みの一部。だとしたら、偉大な営みのなかで、たった一人の人間である「親」が子どもを自分の思うように育てようなんて、おこがましいのでないか。そんな感覚が私の子育ての根底にある。

子どもが自分の思うようにならないと、よく親はイライラするが、「子どもは自然」だと考えると、思い通りにならないのも仕方ないのではと腑に落ちる。

子どもがどんな風に枝葉を広げ、どんな花を咲かせ、どんな実をつけるのかは、子ども自身の中に答えがある。親はその育ちをサポートしていけばよいのではないか。これが、私の子育てのベースとなる考えとなった。

ーーーー後編へ続く

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