笹倉鉄平のアーティスティックな瞳
笹倉鉄平という画家をご存知だろうか。
海外の港の風景をファンタジックに描く人で、「光の情景画家」と呼ばれる。
私がこの画家の絵を知ったのは、二十歳くらいの時だった。大きい文房具屋の一階にカレンダーの売り場があり、そこで販売されていた一つが目に留まった。
やんわりとした青と紫の溶け合う宵闇に、ふわっと染まっている港町が、うきうきするような光であふれている。笹倉鉄平の絵を用いたカレンダーだった。
アートについて門外漢の私は、「どうしたらこんな景色が見えるんだろう?」と素直に思ったものだった。
これは持論なのだが、アートがアートであることの所以の一つとして、「ありのままを写し取らない」ことが挙げられると思う。
写真だろうと絵画だろうと、文芸だろうとパフォーマンスだろうと、対象のありのままの美しさを再現するだけではつまらない。なぜなら表現者の解釈がないからだ。
対象に宿る、いくつかのエッセンスの内の何かが、表現者の琴線に触れた。
それならば表現者は、その対象の魅力を抜き出したり、誇張したり縮小したり、その人にだけ見えたストーリーを付け加えたりして、無性に表現したくなるはずだ。
ありのままを素直に写し取るのではなく、自分ならではの見え方がある。そう私は思っている。
こういう自分ならではの見え方、すなわち「アーティスティックな瞳」を持つということは、二十歳だった当時の私にとっては自然なことだった。誰しも、そういうものが備わっているものだと思っていたのだ。
ところが、友達に話してもまったく理解されなかった。
その友達は、高校時代から大学まで、ずっと吹奏楽をやっていた。感覚で物事を理解し表現する人間だと自認していた。
そういうタイプならば、アートの話は通じるだろうと、私は笹倉鉄平の話をした。二人で歩いている時に、偶然、文房具屋の一階のカレンダーの売り場を通った。
私は、ずっと惹かれていた笹倉鉄平の絵を掲げたカレンダーを指さした。
「現実の景色がこんなふうに見えるのって、すごいよね。自分もこんなふうに見えたらいいんだけど」
しかし、友達は私の言っていることを、まったく理解できなかった。
何と返事があったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、相手が怪訝そうな顔をして、首を小さく横に振ったのだけは覚えている。とにかく微塵も同調してもらえなかったのだ。
その後、どんなに芸術関連の話をしても、ことごとく通じなくて、私は意気消沈した。
「アーティスティックな瞳」なんてものは、存在しない。あるとしても、それは私しか信じていない、稚拙なファンタジー。キザで、クサイのだろう。
いつしか私は、アートや、作品の見え方についての話を、誰にもしなくなった。怪訝な目で見られるのは、つらかった。
あれから月日が経ち、笹倉鉄平の版画を見かけると、やっぱりいいなぁと思う。
そのことは誰にも話さないけど、深く感じ入る。
描かれた空が、街並みが、動物が、行き交う人々が、そこで暮らしている。ひっそりと、何か楽しみを見つけながら。
私はそれへ羨望の眼差しをそそぐ。画像生成AIで生成された風景イラストとは比べ物にならない。生きた心に映し出された情景だ。AIの画像特有の、「空を知らない人が描いたかのような」感じがない。そらぞらしくない。突き刺さって来る。そして、心を優しくもみほぐしてもくれる。奥行とストーリーのある世界なのだ。
「アーティスティックな瞳」を持つ人によって描き出されると、よく見知っているはずのこの世界は、果てしなく広大で、謎だらけだったりする。
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