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第12回「差別について」を終えて

遅くなり申し訳ありません!忙しいですね~さすが師走!それでもAbuse Dialogueを開催すると元気もらえます!いつもありがとうございます!
仕事の関係で時間がズレ、ちょっと早めに退出してしまってすみませんでした!皆さんのおかげで頑張れました!!

さて、第12回「差別について」で話されたことを私なりにまとめてみますね!

「差別」というと言葉が重すぎるのかもしれませんね、「偏見」のほうが現実味があるのかもしれませんね。
ざっとどんなことがあったかというと以下の感じですかね

・区別っていってることが差別につながってることあるよね
・精神疾患があり、そこに対する差別は感じる
・親を嫌っている=親不孝と「普通の家庭」の人からは思われてしまう
・LGBTQなどの偏見は大きくなくなってきているが、虐待はまだある
・結婚することそして子どもをもつことが「幸せ」「一人前」という押し付け
・「普通」差別、普通はこうだから!といわれても普通ができないんだけど…

どうしたら差別偏見を超えられるんだろうかといったところにも意見交流がありました。こういうところに話が進むのってAbuse Dialogue参加者のすごいとこだなって本当に尊敬します。
やっぱり大きな敵は「普通」ってやつですね

「普通」っていう言葉自体がマジョリティの意見という前提がありますもんね…大多数が同じような価値観を持つことで「普通」が生まれるわけですから
この「普通」の価値観の変化が求められるんですかね
または、「普通」を使うときにも「普通外」の世界があることを認めていく姿勢が必要なのかなと。「普通外」の世界がないと「普通」は成立しませんからね。「普通外」の世界への関心をもつこと、これが多様性という言葉なのかな?

幸せを実感してる人って差別しないよねっていう話もうなずけましたね~、この幸せは心が満たされていることかなと思います。偏見や差別をする人たちってどうにか自分よりも下の存在を創り出すことで安心などを得ているんでしょうね。余裕があると差別や偏見を必要としないですもんね

私は、あえてさっきの言葉を利用すれば「普通外」の世界への関心を持ち、知ろうとすれば余裕が生み出されたりする気がするんですけどね…
「普通外」と思われている立場にある人たちのことを知ると「普通」の枠が広がります。自分の思っていた「普通」の狭さに気づきます。「普通」を大きくすればするほど余裕が生まれる、そして偏見や差別も必要なくなるのかななんて思いました。

それと、今回自分の中で大きな発見だったのが
LGBTQ関連のドラマや映画などでハッピーエンドになり多くの共感をつかめるのは、例えば同性愛者が同性愛者のまま時間を重ねパートナーシップをもったり、周りに認められ生活していけるとこなのかなと
(もちろんLGBTQなりの苦難っていっぱいあるはずなので自分の知識不足前提とハッピーエンドにならないこともまだまだあるとは思っています)

虐待は、映画やドラマで扱われても虐待を過去のものにして幸せをつかんだというストーリーばかりで虐待は幸せの前のエッセンスになってしまうことが多い気がします。

それは、LGBTQの方の同性愛者に例えると、同性愛者が時間の経過とともに異性愛者になり「普通」の価値観で幸せになるというストーリーになると思うのです。これって変じゃない?ってなりますよね。同性愛者が異性愛者になることで幸せになるなんて…

虐待にはそれが起きてるんじゃないかと、だから世間と乖離してしまうのかなって
当事者の方々と話していて思うのは虐待を過去のものにはできないということ
虐待経験を持ちながらも認められる社会が必要なのかなと思います。
そのためにはやっぱり「普通」の中でも特に「普通の家族」という家族観を考えていく必要がある気がします。


次回はもう年末ということで、「今年良かったこと、一緒にを新年に迎おう!」「Abuse Dialogueのダイジェスト」の二本立てでいこうと思います!
日時は1月29日㈫19:00~20:15の予定です!

Abuse Dialogueに出会ってよかったこととか聞けたら自己肯定感上がるのでそんなこと考えてくれる人いたらもううれしすぎます!もちろん初めての参加者もウェルカムです!様々な人の話をきくとAbuse Dialogueの場がどんなとこか知れると思うので!

マモでした!

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