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書評

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海外文学の新作の書評。
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記事一覧

『狼の幸せ』パオロ・コニェッティ    飯田亮介訳

ミラノ生まれの作家、パオロ・コニェッティは子どもの頃から夏になると一九〇〇メートル級の山地にあるホテルを拠点にして登山や山歩きを楽しんできた。三十歳を過ぎた今も、モンテ・ローザ山麓にあるフォンターネという村に小屋を借り、その土地で目にした自然と生き物の様子やそこに生きる人々の飾らない暮らしぶりをノートに書き留めては創作の糧にしてきた。デビュー作『帰れない山』以来、作家本人を思わせる一人の男の目を通して、山で生きる厳しさと愉しさを描いてきたが、今回は四人の男女の視点を借り、山で

『教皇ハドリアヌス七世』コルヴォー男爵 大野露井 訳

今年の翻訳大賞はこれで決まりだ。もう何年も前に『コルヴォー男爵を探して』(A・J・A・シモンズ、河村錠一郎訳)を読み、「これが今まで本邦初訳であったのがちょっと信じられない。稀覯本に限らず、奇書、珍書に目がない読者なら何を措いても読まねばならない一冊」と書いたことがある。そのコルヴォー男爵こと、フレデリック・ロルフの代表作『教皇ハドリアヌス七世』の本邦初訳である。 待つこと久し。待ちわび、待ちあぐね、ついには老齢のせいもあって、待っていたことさえ忘れ果ててしまった今ごろにな

『夜のサーカス』エリン・モーゲンスターン 宇佐川晶子訳

十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、ロンドンを拠点として世界各地を飛びまわるサーカスがあった。<ル・シルク・デ・レーヴ>は普通のサーカスではない。日没から夜明けまでしか開かない<夜のサーカス>なのだ。まだまだ都市近郊に野原や空き地があった時代。予告もなしに、そのサーカスはいきなりやってくる。昨日まで何もなかったところが鉄柵で囲まれ、柵沿いに伸びる遊歩道の向こうに、白と黒の縞柄で統一された高さも広さも様々なテントの群れが忽然と姿を現す。 シーリアは魔術師プロスぺロことヘクター

『夕霧花園』タン・トゥアンエン 宮崎一郎訳

テオ・ユンリンはマラヤ連邦裁判所判事を定年まで二年残して辞職した。誰にも言わなかったが、少し前から突発的に言葉の意味が理解できなくなる事態が生じていたからだ。優秀だが厳しいことで知られる判事だった。彼女には封印した過去がある。十九歳の時、日本軍がマラヤを強襲し、三歳年上の姉と共に強制収容所に入れられた。手袋で隠された左手の小指と薬指は、二本の鶏足を盗んだ代償として切断されていた。 彼女は生きて出られたが、姉のユンホンは生きて収容所を出ることはなかった。彼女は姉を見捨て、ひと

古書の山から掘り当てた詩集が時空を超えて呼び寄せる、運命的なめぐり逢い

『時ありて』イアン・マクドナルド 下楠昌哉 訳ロンドンにあるアパートの一室で本に埋まり、ネットで古書を売っている「私」は、有名な古書店の閉店に伴う在庫の処分品の中から、一冊の本を掘り当てた。E・L著とイニシャルだけが記された詩集で『時ありて』というタイトルだ。第二次世界大戦が専門分野である「私」は、普段なら手を出さないところだが、なぜか好奇心が働いた。刊行は一九三七年五月、イプスウィッチ。出版社は記されていない。紙も表紙の布地もいいものが使われている。中に何かが挟まっている。

『戦禍のアフガニスタンを犬と歩く』ローリー・スチュワート 高月園子 訳

だが、タリバンに入国を拒否され、アフガニスタンは後回しにするしかなかった。翌年にタリバン政権が倒れると、彼は大急ぎでネパールから引き返してきたのだ。 通常アフガニスタンの西の都市ヘラートから東のカブールに行くには、ヒッピーたちが旅したように南のカンダハールを経由する。それなのに、あえて最短距離のルートを選択し、積雪三メートルに及ぶ冬の山岳地帯を抜けて歩き通した苛酷な旅の記録だ。誰からも冬季に山岳地帯を行くのは無謀だと説得されるが、南はまだタリバンの勢力下にあり、そこを通るの

『フォンターネ 山小屋の生活』パオロ・コニェッティ 関口英子 訳

人里離れた場所にひとりで暮らす生活に憧れる。昔のことになるが『独りだけのウィルダーネス』という本を読んでその気になり、北欧製のキットを買って近隣の山中に丸太小屋を建てたことがある。休日にバルコニーで読書したり、石を組んだ炉で焚火をしたり、愉しいときを過ごしたが、豪雨による土砂崩れで道が不通になり、足が遠のいた。何年かして道が通じたので行ってみたが、扉の鍵が錆びて開かなくなっていた。 手入れして使えないこともないが、今となっては体力がない。そんなわけで、近頃は本を読むことで憧

クローズド・サークルを逆手に取った犯人の企みに一票!

『キュレーターの殺人』M・クレイヴン 東野さやか 訳 国家犯罪対策庁重大犯罪分析課(NCASCAS)の部長刑事ワシントン・ポーと同課分析官ティリー・ブラッドショーがコンビを組んで捜査にあたる『ストーンサークルの殺人』、『ブラックサマーの殺人』に続くシリーズ第三作。今までのなかでの最高傑作。英国北西部に位置するカンブリアは、アイリッシュ海から吹く風の影響で天候が変わりやすく、冬ともなれば雪に覆われる、人間より羊の方が数が多いという辺境の土地。 もともと煩わしい人間関係に嫌気

ミステリとメタフィクションの奇跡的な融合

『精霊たちの迷宮』上・下 カルロス・ルイス・サフォン  木村裕美 訳 《上・下巻あわせての評です》 『風の影』『天使のゲーム』『天国の囚人』に続く「忘れられた本の墓場」シリーズ第四部、完結編。バルセロナの地下に隠された本の迷宮を知る、限られた人々を語り手に据えたこのシリーズは、内戦からフランコ独裁政権というスペインの暗黒時代を背景に、史実を大胆に脚色し、作家偏愛のマネキンや人形の並ぶ倉庫や、廃墟、墓場や地下牢を舞台に仮面の怪人が登場する異色の小説世界。作品によって訳者のい

人は弱いもので、時に愚かしい真似もするが、それでも人生は生きるに値する

『バージェス家の出来事』エリザベス・ストラウト 小川高義 訳 三分の二は逃げそこなった、と思っている。彼とスーザンは――スーザンには息子のザックも合算して――一家の父親が死んだ日から運命にとらわれた。どうにかしようとは思った。母親も子供のために頑張ってくれた。だが、うまく逃げおおせたのはジムだけだ。 あの日、四歳のボブと双子の妹スーザン、それに長男のジムは車に乗っていた。玄関前の坂道の上に父が車を停め、郵便受けの不具合を直そうと坂道を下りていったあと、車が動き出して父は圧

『地図と拳』小川 哲

一八九九年の夏、南下を続ける帝政ロシア軍の狙いと開戦の可能性を調査せよ、という参謀本部の命を受け、高木少尉は松花江を船でハルビンに向かっていた。茶商人に化けて船に乗ったはいいが、貨物船の船室は荷物で塞がれ、乗客で溢れた甲板では何もかもが腐った。腐った物は船から松花江に捨てるのが元時代からの習慣だった。一人の男が死体を投げ捨て、「こいつは燃えない土だ」と呟いた。高木は「どういうことだ?」と尋ねた。 男は「土には三種類ある。一番偉いのが『作物が育つ土』で、二番目が『燃える土』。

人づきあいが少なくて何が悪い。余計なお世話だ、と私は思ったのだが……。

『この道の先に、いつもの赤毛』アン・タイラー これが書き出し。そのあと、彼のルーティンの紹介が続く。毎朝七時十五分からのランニング、十時か十時半になると、車の屋根に<テック・ハーミット>(ハーミットとは隠者のこと)と書かれたマグネット式の表示板をとりつけ、パソコンの面倒を見る仕事に出かける。午後は通路の掃除やゴミ出しなど、管理人を兼ねているアパートの雑用だ。住んでいるのは半地下で細目を開けたような三つの窓から外光が入る。 仕事上で出会う客とのやり取りや、つきあっている女友

見えない月を追った男

『無月の譜』松浦寿輝吹けば飛ぶような、将棋の駒に命を懸けた二人の若者の短すぎた青春を悼む鎮魂曲。一人は棋士を、もう一人は将棋の駒を作る駒師を目指していた。行く道も、時代も異なる二人をつなぐのが将棋の駒だ。鎮魂曲に喩えたが、哀切極まりない曲調ではない。主人公の人柄の良さもあり、人が人を呼び、人と人とのつながりが輪となって大きなうねりを描いてゆく。読後、しみじみよかったなあ、と思わせてくれる、近頃珍しいとても後味のいい小説である。 棋士がタイトル戦に用いるような駒ともなると、な

今に変わらず、当時も世界はパンデミックに見舞われていた。

『ハムネット』マギー・オファーレル 小竹由美子 訳 髪を飾る花冠のために野に咲く草花を摘みに行く話といい、双子の兄妹の入れ替わりといい、魔女の予言によって夫の出世を知った女が、夫をその気にさせ、いざ事が成就した暁にその報いをうける運命の皮肉といい、人に知られた悲劇、喜劇を換骨奪胎して一つに縒り合わせ、マギー・オファーレルは一篇の小説に仕立て直した。これはある「比類ない人」に捧げる一篇の叙事詩なのかもしれない。 多国間を旅する商船のキャビンボーイが、寄港したアレクサンドリアの