『人間の建設』No.55「素読教育の必要」 №1〈はっきりした教育〉
小林さんが前章のプラトンの話題からガラッと変えて、江戸時代の寺子屋式の、岡さんの素読教育をするべきだとの論述を取り上げます。寺子屋といえば、いわゆる「読み、書き、算盤」ですね。
武士や僧侶などの知識階級の人が先生となって庶民に教育を施す。うまいシステムを考えたものです。識字率など、江戸時代の民度が当時の諸外国に比べても非常に高いものだったと聞いたことがあります。
「開立の九九」とは巻末注で「ある数や代数式の立方根を求めること」とあります。三乗九九とも言い、1³=1、2³=8、3³=27……を「いんいちがいち」「ににんがはち」「さざんにじゅうしち……」と覚えるそうです。
幼少の時期の人間は、記憶の三要素「記銘、保持、想起」の驚異的な能力が備わっているということですね。まさに誰もが神童かというくらいなものです。
まあ、個人差は当然あるのでしょうが、その人の生涯において他の時期に求めること能わないレベルの能(脳)力だと。それを生かさない法はありませんね。でも、素読を現代に置き換えるといったい何になるでしょうか。
今から60年前のお二人の対談ですが、素読のような教育が現代において復活したという話は聞いたことがありません。また、「『論語』の意味とは何でしょう」という小林さんの言葉は重いですね。
入試などで、文章の意味を答えさせることはよくある話です。正解というものがあって、それに合っていれば○、違っていれば✕。でも、それだけが「正解」なのでしょうか……。
「丸暗記させる教育だけがはっきりした教育」「意味を教える(=答させる)ことは実に曖昧な教育」という小林さんの言葉も重いです。人の答案の採点なんて、軽い気持ちではできないのではないか。
曖昧な意味などを教えるのではなく、なぜその答えにたどり着いたかを考えさせる、論理的に説明させる。そんな海外の学校教育を耳にした記憶があります。それこそ「素読」と並ぶ「正解」のひとつではないでしょうか。
――つづく――
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