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1993年のオーストリア・モーツァルト №58〈ウィーン №10〉

1993年7月、転職のはざまに2週間の自由(失業)期間ができて、これはチャンス。リュックを背負ったエコノミーな個人旅行で、憧れのオーストリアへ行きました。
今年はちょうど30周年、当時はスマホはもちろんなく、携帯電話すら一般にはまだ普及していなかった時代。世の中随分変わりましたね。
旅行中の日記がこの『旅日記』の元ネタです。写真も交えて旅のあれこれを思い返しながらつづっていきます。そんな、よしなしごとにお付き合いいただければ幸いです。

ウィーン♪ №10(郵便局、日本へ小包を送ろうとしたら……3)

1993(平成5)年7月20日(火)午前

 渡された紙片には、中身を書くのだということにやっと思いついて片方には「BOOKS ONLY(本だけ)」もう一方には「PRINTED MATTER ONLY(印刷物だけ)」と書いた。(※1)

   〈モーツァルトとウィーンのピアノ協奏曲第11番 K.413〉
今回は、ちょっと趣向を変えて動画をご紹介します
26歳のとき、モーツァルトはかねて険悪な中であった、故郷ザルツブルクの大司教コロレードに対し、宮廷楽団楽長職を辞して、あこがれの地ウィーンへと羽ばたき 自分の腕一つで生きていく決意をします
晴れやかな胸の内を映す音楽 とくに第2楽章いいですね~ 大好きです!
第1楽章Allegro 0:18~/第2楽章Larghetto 10:14~/第3楽章Tempo di Menuetto 17:47~

 


 つぎに何かを聞かれた。ぼくの困った顔を見て彼女がしたことは、さっきまでの彼女に対するイメージをひっくり返すに十分とはいえないまでも、相当の効果があった。(※2)

 彼女は前にそろえた両手を揺らして波の様子をなぞりながら「シップ」次は両手を横に水平に広げてバタバタさせ「エア・メイル」といった。(※3)

 〈モーツァルトとウィーンのピアノ協奏曲第12番 K.414〉
ウィーンで最初に作曲した3曲のピアノ協奏曲が、第11番、12番、13番です
じつは、作曲順ではこの12番が先ということがわかっています
ウィーンで活躍し始めたモーツァルトの喜びにあふれた音楽を楽しめます
なかでも第1楽章がいいですね~ ワクワクするようです!
第1楽章Allegro 1:23 ~/第2楽章Andante 11:12~/第3楽章Allegretto18:07~

 

 もちろんそれで分かって「シー・メイル(船便)」と答えた。本当にメイル(滅入る)寸前に救われた。このようにしてなんとか日本あてに小包を送ることができた。(※4)

〈モーツァルトとウィーンのピアノ協奏曲第13番 K.415〉
モーツァルトの音楽はウィーンの聴衆に熱狂的に歓迎されて
ピアノ協奏曲の予約演奏機会はいつも超満員
モーツァルトはあちこち引っ張りだこのスター扱いでした
後の作品ですが、ピアノ協奏曲第17番のメロディーをムクドリが囀っていたので早速買って帰ってかわいがったというエピソードが残っています
各楽章ともよくて迷いますが 第3楽章のドラマ性が素敵です!
第1楽章Allegro 00~/第2楽章Andante 10:33~/第3楽章Rondo 17:19~

 


 ホテルへ戻り荷物をまとめチェック・アウトした。10時を過ぎていたが係の男性は気持ちよくぼくを見送ってくれた。(※5)


――つづく――


※1 さっきの男性局員が外国人旅行者の僕にせっかくの忖度をしてくれたのですから、堂々とそう書きました。

※2 この女性に対する苦手意識と、列にならんでいる後ろの人たちの目線が気になって、極度の気後れで判断停止の状態だったかもしれません。

※3 この一幕の山場です。ここまで悲劇と思われたものがじつは喜劇であったとわかるのです。

※4 このとき血圧計があったら、緊張状態で高潮していたものがスーッと下がったことがわかったでしょう。

※5 オーストリアの男性は紳士的です。対して女性はストレートです。言い方を変えれば、男性はお人よし、女性はしっかり者。
この国を支えているのがどちらかお分かりですね。かつては女帝マリア・テレジアが君臨・統治したハプスブルク帝国です。(あくまで私見です(笑))



※標題画像はウィーンの周回道路、リンクを走る路面電車です。

#オーストリア
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#わたしの旅行記

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