マガジンのカバー画像

読書びより

163
気ままな読書で感じたことや役に立ったことを書いています
運営しているクリエイター

#建設

『人間の建設』No.56「素読教育の必要」 №2〈理性の正しい使い方〉(終)

 素読の意義について小林さんが力説しています。素読は、音読でもありますね。かつて読書は音読が常識であって、黙読で読むことは、歴史的にはまだ浅い、と聞いたことがあります。  古典は音読に適していて、現代文は黙読に適するようにできてきた。そもそも風土記などは古老の口伝が文字に置き換えられて定着したり、古事記などは口述が文字に置き換えられたものですよね。  中学・高校の国語の授業ではよく古典の暗唱が宿題になったのを思い出します。「奥の細道」「方丈記」「源氏物語」などの冒頭部分で

『人間の建設』No.41 「一(いち)」という観念 №2〈数学者における一という観念〉

 岡さんは、人間は成長にしたがって一というのがわかる時期が来る。それは十八ヵ月、一歳半のころであると言っています。  小林さんは岡さんの文章を読んだそうなのでご存じですが、私は出典を知りませんので推測ですが、岡さんの子育ての経験からそういう仮説を立てたのかもしれません。  岡さんがいかなる天才であろうとも、お釈迦様でもあるまいし、自分の生後十八ヵ月のときの記憶に基づく話ではないと思うからです。  この辺りの会話は、前段とは逆に岡さんが完全に主導権を執っています。自分の領

『人間の建設』No.31 美的感動について №1〈芥川龍之介〉

 ここで岡さんは芥川龍之介の呼ぶ詩とは何かについて、「直観と情熱」と説明します。  直観と情熱、どこかで聞いたと思いましたら、この対談の最初の方「国を象徴する酒」の節で見ました。すこしふりかえってみましょう。  岡さんは、文学や芸術にも深い興味と造詣をもっているようで、この方面で小林さんの批評というなりわいにつながるものがあります。  また、自身も随筆も多くものしました。小林さんがその中の『春宵十話』を批評した縁でこうした対談が実現したのですね。  その小林さんに対し

『人間の建設』No.34 人間の生きかた №2〈ドストエフスキー〉

 上の会話に出てきた「白痴」、わたしは未読です。おぼろげですが、昔実家の本棚にあった世界文学全集の一冊を手に取って読み始めた記憶はあるのですが、あまり進まないうちに頓挫してしまいました。  ドストエフスキーの特徴が一番よく出ているのが「白痴」ですか。読んでみたいという気持ちが出てきそうです。  さて、対談の方は20代に人生の方向が決まるかという点に移ります。  20代で始めた仕事とおなじことをわたしも続けています。まあ、会社員ですからそれが普通のことかもしれません。定年

『人間の建設』No.30 アインシュタインという人間 №3

 この段落を読んで思い出したのが、例のニュートンとリンゴの話です。 「なぜ、リンゴは木から落ちるのか」という疑問から万有引力の法則が発見されたという逸話ですが、文書記録や物証があるわけでなく、あくまでも伝聞が流布した話であり、真偽は不明なようです。  実際には、当時知られていた、ガリレオの「落下の法則」と、天体の運動に関する「ケプラーの法則」の二つを結び付けて、昇華したというのが真相のようです。(人類最大の謎!宇宙・深海・脳の世界)  それはともかく、リンゴの逸話はおも

『人間の建設』No.29 アインシュタインという人間 №2

 小林さんから見て、物理学者と数学者は近いものだと思うのでしょう。不肖わたしなどもおなじイメージをいだいています。  ところが、岡さんによれば両者には意外にもタイプのちがいが明確にあるというのですね。私のたとえがわるいかもしれませんが、物理学者は一発屋の派手好み。数学者はコツコツ歩む地味なやつ。  小林さんは、この対談のはじめのころから、自然科学の泰斗アインシュタインを正面に据えて、自然科学に通底する諸問題について、岡さんの考えを知ろうとしていろいろな質問をしたり意見をぶ

『人間の建設』No.27 破壊だけの自然科学 №3

 前段までに岡さんは、理論物理学がしていることは、破壊とか機械操作であり、建設ということを何もしていない、と述べました。  では、そのやり損ないや間違った方向を改めて、建設に向かって何をどう進めていくのかが問題になります。  どう進めていくかに関しては、ここまでの対談の中で岡さんが示唆されてきたと思います。  知性偏重の態度を改めて、まず「意義を良く考え、それが指示する通りにする」。個我の満足ではなく、携わる者皆の心が納得する方法、知情意のバランスを図って進めるというこ

『人間の建設』No.26 破壊だけの自然科学 №2

 前段で、岡さんはアインシュタインが光の存在を否定したことを前提に「現在の物理学は数学者が数学的に批判すれば、物理学ではない」としました。観念的公理体系、哲学的公理体系というものにかわってしまったから。  さらに岡さんは、理論物理学がしていることは、破壊とか機械操作であり、建設ということを何もしていない、とつづけます。  機械操作というのはこのあと岡さんの話で出てくるのですが、自動車や汽船や電車の発明のようなことです。ここでも、破壊か機械操作しかしていないと、現代物理学を