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読書びより

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気ままな読書で感じたことや役に立ったことを書いています
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#小林秀雄

『人間の建設』No.53「批評の極意」 №1〈「論語」と「国家」〉

 岡さんがプラトンに話題を変えて、小林さんに振りました。哲学の専門書ではないと小林さんが言いますが、わたしはプラトンは正に哲学じゃないか、現に以前「国家」を読もうとして挫折したのだから、と思います。  小林さんは、また「頭をはっきりと保って」と言います。でも小林さんだからいつでもそうできるのだろう、わたしなどはごく「まれ」にしかそうできない頭の造りなんです、と思ってしまいます。  でも、小林さんの話を読んでプラトンに再挑戦するのもありかなと思いました。挫折してもまた哲学に

『人間の建設』No.54「批評の極意」 №2〈その人の身になってみる〉

 年表によると岡さんは、1901年(明治34年)の生まれ。小林さんは、翌1902年(同35年)の生まれです。ぼくの親世代よりさらに一世代以上の開きがある計算です。  祖父は私の少年時代に他界して、父から「大東亜戦争」(太平洋戦争)のことを聞いたのも断片的です。特攻隊の話を聞いた記憶もありません。本で読んだりテレビの特番でみただけです。その父も、もういません。  特攻隊員の心境とは、どんなものだったでしょうか。父母や身近な人たちを守りたい、この戦争で犠牲にしたくない、そのた

『人間の建設』No.55「素読教育の必要」 №1〈はっきりした教育〉

 小林さんが前章のプラトンの話題からガラッと変えて、江戸時代の寺子屋式の、岡さんの素読教育をするべきだとの論述を取り上げます。寺子屋といえば、いわゆる「読み、書き、算盤」ですね。  武士や僧侶などの知識階級の人が先生となって庶民に教育を施す。うまいシステムを考えたものです。識字率など、江戸時代の民度が当時の諸外国に比べても非常に高いものだったと聞いたことがあります。 「開立の九九」とは巻末注で「ある数や代数式の立方根を求めること」とあります。三乗九九とも言い、1³=1、2

『人間の建設』No.56「素読教育の必要」 №2〈理性の正しい使い方〉(終)

 素読の意義について小林さんが力説しています。素読は、音読でもありますね。かつて読書は音読が常識であって、黙読で読むことは、歴史的にはまだ浅い、と聞いたことがあります。  古典は音読に適していて、現代文は黙読に適するようにできてきた。そもそも風土記などは古老の口伝が文字に置き換えられて定着したり、古事記などは口述が文字に置き換えられたものですよね。  中学・高校の国語の授業ではよく古典の暗唱が宿題になったのを思い出します。「奥の細道」「方丈記」「源氏物語」などの冒頭部分で

『人間の建設』No.51「近代数学と情緒」 №3〈なぜ、かわいいのか〉

 前段で岡さんは数学と情の関係について話しましたが、ここでは仏教の考えに言及します。光明主義、なぜ全能の如来(ほとけ)と無能な個人(ひと)の間に交流が起こるか、仏が人を救済しようとするのはなぜか。  乱暴かもしれませんが、仏を人に、人を犬猫に置き換えれば理解がしやすいのではないでしょうか。賢いから、役に立つからかわいい、それもあるかもしれません。でも犬猫は、ただただかわいいのですね。  動物は喋らない、人がすることはできない。あるがままで、それが自然です。人も小賢しく仏の

『人間の建設』No.50「近代数学と情緒」 №1〈三つの数学〉

 本書では「函数」表記していますが、私の場合をいえば学校で「関数」と習ったと記憶しています。実は、両方の表記が流通しており、片方の表記が誤りというわけではないようです。  過去から「どっちやねん論争」もあったようですが、ここでは本書に従い「函数」と記させていただきます。それで、数学には三つあって「幾何学」「代数学」「解析学」なんですね。  古代ギリシャのピタゴラスの幾何学が最も古くからあったように私はイメージしていましたが、正解は「解析学」だと。函数とは二つの数の関係を言

『人間の建設』No.50「近代数学と情緒」 №2〈「函数」のみらい〉

 小林さんが、函数の現状について岡さんに質問しました。それに対して岡さんは、複素数という数学の概念に関連づけて函数の発展について触れ、予言的なことも仰っていますね。数学史の類型から推測されたのでしょうか。  さて、数の概念がそれまでの実数の世界であったのを、虚数というものを導入して数を一般化しました。二乗して「-1」になる数を虚数「i」としたわけですね。高校時代、これを習って〈え”~〉と驚愕した記憶があります。  複素数というのは、実数と虚数の足し算で表しますが「コーシー

『人間の建設』No.49「はじめに言葉」 №4〈言葉のちから〉

 前段からの流れでこんどは岡さんから小林さんへ問いが発せられます。小林さんのような文学者であればなおさら、言葉こそが考えることの原点でしょうねと。  ところが、少し意外な答えを小林さんが述べるのです。「考えるというより言葉を探している」。そう言えば小林さんの著作に『考えるヒント』がありました。それを読み返せばここで仰ていることのヒントがあるのかも。 「文士はみんな、そういうやりかたをしているだろうと私は思いますがね」と小林さんは続けます。それくらいに言葉というものが文学者

『人間の建設』No.48 「はじめに言葉」 №3〈言葉と方程式〉

 私など素人が思うに、数学の論文などはほとんどが数式でところどころを文章でつないでいるという構図を想像します。ところが岡さんによればそれは違うということです。たいていが文であると。  論文と比較対象にはならないとはおもいますが、数学で身近な書物といえば学校時代の教科書。とはいっても、もう残っていないので確認しようもありませんし、どんな記述のあり方だったのか記憶も薄れています。  小林さんの抱くイメージも、私とその点では大差なかったかもしれません。それと、文とはいっても小説

『人間の建設』No.47 「はじめに言葉」 №2〈安心という目途〉

 岡さんが言った「家康の安心」とは、1600(慶長5)年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」を制して征夷大将軍となり天下を統一した時のことをさしているのでしょうか。  小林さんや岡さんが言うようなことは数学に限らず、日常われわれもよく経験することのように思います。一つ解決すると、次の問題がでてくる。それがなんとか片付いたと思ったらまた、……。  だから、岡さんが言うように「無解決」ということもあり得るのだと。逆に問題が全部解決するとしたら、もう何もすることがなくなってしまいます

『人間の建設』No.46 「はじめに言葉」 №1〈わかるということ〉

 小林さんのように、モーツァルトを論じ、ゴッホを語り、ドストエフスキーを評してきた人が、西洋人のことがわからなくなってきたと言います。岡さんも、細胞の一つ一つがみな違っているという気がすると言っています。  岡さんは、若いころフランスに3年間留学しているのです。年表によれば、生涯をかけて取り組む研究分野として「多変数解析関数論」の世界を選んだのが、この留学中だったということです。  また、ラテン文化の奥深さを学んだのもこの留学中の経験がその契機になっているそうです。国際的

『人間の建設』No.44 「数学と詩の相似」 №1〈ヴィジョンの《ひらめき》〉

 岡さんの著書で読んだ、あるいは奈良まで来て直接聞いた「情緒論」に、小林さんが感銘を受けた様子が伝わるお話です。感動と言っていもいいくらいに。  それを小林さんは、ヴィジョンと呼んでいます。岡さんのオリジナル、それが当時の学説や世の中の潮流とは一線を画す、たとえ異端のようであってもいい。なぜなら、美しくおもしろいからだと。  岡さんのヴィジョンが一番よく現れているのは数学の仕事だろう。専門家ならこれが情緒だとそこを指摘できるのに、自分には出来ない、でもそれでいい。「ヴィジ

『人間の建設』No.41 「一(いち)」という観念 №2〈数学者における一という観念〉

 岡さんは、人間は成長にしたがって一というのがわかる時期が来る。それは十八ヵ月、一歳半のころであると言っています。  小林さんは岡さんの文章を読んだそうなのでご存じですが、私は出典を知りませんので推測ですが、岡さんの子育ての経験からそういう仮説を立てたのかもしれません。  岡さんがいかなる天才であろうとも、お釈迦様でもあるまいし、自分の生後十八ヵ月のときの記憶に基づく話ではないと思うからです。  この辺りの会話は、前段とは逆に岡さんが完全に主導権を執っています。自分の領

『人間の建設』No.39 無明の達人 №3〈「小説」のひみつ〉

 前回の記事の繰り返しになりますが、小林さんは「自分にわかるものは、実に少ないものではないか」と言い、岡さんも「外国のものはあるところから先はどうしてもわからないものがあります。」と同調しました。  キリスト教についていえば、私達も知識としてはあるいは教養としては、ある程度知っていると言えるでしょう。キリスト教圏の他の作家の作品を読んだり、聖書そのものを読んだりした方も多いことでしょう。  知識というものはあるのです。まったく知らないわけではない。では、彼我で何が違うのか