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読書びより

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気ままな読書で感じたことや役に立ったことを書いています
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2022年12月の記事一覧

小林「むずかしければむずかしいほど面白いということは、だれにでもわかることですよ。そういう教育をしなければいけないとぼくは思う。それからもう一つは、……学問の、社会における価値ですね。それが下落している」 岡「学問の権威というものが、社会に認められていないですね」

小林「岡さんが無明ということを書いていらっしゃったでしょう……」 岡「男女関係を沢山書いております。それも男女関係の醜い面だけしかかいていません。あれが無明というものです。人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある」

岡「人には個性というものがある。……個性は自己中心に考えられたものだと思っている。本当はもっと深い所から来るものであるということを知らない。つまり自己中心に考えた自己というもの、西洋ではそれを自我といっております。仏教では小我といいますが、小我からくるものは醜悪さだけなんです」

小林「私は絵が好きだから、いろいろ見ますけれども、おもしろい絵ほどくたびれるという傾向がある。人をくたびれさせるものがあります。物というものは、人をくたびれさせるはずがない」 岡「そうなんですよ。芸術はくたびれをなおすもので、くたびれさせるものではないのです」

母のために選ぶ、児童書。16(ひとくぎり)

90歳を超えて、さすがに母も小さい文字が読みづらい、眼鏡をかけても本が読めないというのです。電子書籍は母には使いこなせません。ルーペ眼鏡も、母には使いにくいようです。ならばと、視点を変えて、児童書にアプローチしてみました。これは、いけるかも! 📗  18セット目の3冊、通算54冊めのご紹介です。母の感想はどうだったでしょうか、ご報告します。 ・『かみさまのベビーシッター』 廣嶋玲子作/木村いこ絵 理論社刊 ・『本屋さんのルビねこ』野中 柊作/松本 圭以子絵 理論社刊☆

母のために選ぶ、児童書。15

90歳を超えて、さすがに母も小さい文字が読みづらい、眼鏡をかけても本が読めないというのです。電子書籍は母には使いこなせません。ルーペ眼鏡も、母には使いにくいようです。ならばと、視点を変えて、児童書にアプローチしてみました。これは、いけるかも! 📗  17セット目の3冊についてご紹介します。通算51冊目になります。母の感想はどうだったでしょうか、ご報告します。 ・『すみれちゃん』 石井睦美作/黒井 健絵 偕成社刊☆ ・『オバケたんてい』 藤江じゅん作/吉田尚令絵 あかね書

母のために選ぶ、児童書。14

90歳を超えて、さすがに母も小さい文字が読みづらい、眼鏡をかけても本が読めないというのです。電子書籍は母には使いこなせません。ルーペ眼鏡も、母には使いにくいようです。ならばと、視点を変えて、児童書にアプローチしてみました。これは、いけるかも! 📗  16セット目の3冊についてご紹介します。通算48冊目になります。母の感想はどうだったでしょうか、ご報告します。 ・『アニメ版 ちびまる子ちゃん』 さくらももこ原作 金の星社刊☆ ・『あやめさんのひみつの野原』 島村 木綿子作

母のために選ぶ、児童書。13

90歳を超えて、さすがに母も小さい文字が読みづらい、眼鏡をかけても本が読めないというのです。電子書籍は母には使いこなせません。ルーペ眼鏡も、母には使いにくいようです。ならばと、視点を変えて、児童書にアプローチしてみました。これは、いけるかも! 📗  15セット目の3冊についてご紹介します。通算45冊目になります。母の感想はどうだったでしょうか、ご報告します。 ・『ニャンの日にまいります!』 木内 南緒作/ 酒井 以絵 岩崎書店刊☆ ・『ぼくはアフリカにすむキリンといい

小林「今日は大文字の山焼きがある日だそうですね。ここの家からも見えると言ってました」 岡「私はああいう人為的なものには、あまり興味がありません。小林さん、山はやっぱり焼かない方がいいですよ」 小林「ごもっともです。私はいっぺんお目にかかってお話をうかがいたいと思っていたので……」

小林「学問が好きになるということは、たいへんなことだと思うけれども」 岡「人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。……ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい」

・岡潔(1901-1978)大阪生まれ.。日本数学史上最大の数学者 ・小林秀雄(1902-1983)東京生まれ。日本語による近代批評の表現を確立 文系頭脳の歴史的天才と理系頭脳の歴史的天才による雑談である 日本史上最も知的な雑談といえるだろう (出典:新潮文庫版『人間の建設』)

トルストイ『人生論』、読んでいます。3(終)

トルストイの『人生論』。この本を読みながらしていることがあります。各章から、エッセンスと思われる一文を引用して「つぶやき」でnote記事に。この複雑で難解とおもえる本の内容を読みとき、読みこなすための作業として……。ここまでをひと区切り。通しで振りかえりたいと思います。  今回は、第二十五章から最後(補足3)までをまとめました。 📗 第二十五章  愛は、それが自己犠牲である時にのみ愛なのである。人が他人に自分の時間や自分の力を捧げるだけでなく、愛する対象のために自分の肉

生命に付随するさまざまの現象を研究しながら、生命そのものを研究していると思いこみ、その想定で生命の概念をゆがめている。/補足2 個人的な幸福と欺瞞的な義務とを訴えかける声よりもこの(理性の)声の方が強くひびく時がやがて来るし、すでにもう来たのである。/補足3 トルストイ『人生論』

わたしが人間であり、個我であるのは、他の個我の苦しみを理解するためであり、私が理性的な意識であるのは、それぞれ別の個我の苦しみの中に、苦しみの共通の原因たる迷いを見て、自分と他の人々のうちにあるその原因を根絶することができるためにほかならない。 トルストイ『人生論』第三十五章