日本の戦争文学/安岡章太郎「質屋の女房」

安岡氏の短編は書き出しがうまい。

初めて質屋に行ったときのことをおぼえている。

この後の一文、

自分はもう、これで清浄潔白の身分ではなくなる。堕落学生の刻印を額の上におされるのだ。

には安岡氏のユーモアがある。

安岡氏の小説には、肉体的な母親が出てくる。「女」性を奇妙な形で引きずった、不気味な(しかし憎むこともできない)不思議な存在だ。

おふくろは、僕が外でしていること(筆者注:質屋に行くこと)には何も気がついていない振りをしていた。(略)そのくせ、どうかした拍子に、乱雑な僕のき出しの中にあるものを、いつの間にか引っ張り出して、何食わぬ顔で僕の眼にとまるところへ置いてあったりするのだ。(略)
(略)僕は母親の眼つきを恐れながら、同時にそのヤリ口に腹が立った。しかも、こちらが怒ればヤブ蛇になるだけだから、一層いら立たしいのである。

この母親は彼女が「嫌っている僕の友人」の手紙を「ラジオの上に」載せておく。
しかし、ここで詰問すれば、

(略)自分がFのことでどんなに迷惑をこうむったか、とそればかりをクドクドいはじめるにきまっている(略)

から、「僕」は文句も言えない。

タイトル〈質屋の女房〉の初登場シーン。

店の上りかまちの座敷に、和服にカッポウ着をつけた女が一人、こちらを向いて坐っている。(略)僕はとまどった。

僕は、持ってきた大きな冬の外套がいとうを彼女の前に差し出した。(略)
「冬ものですね」と彼女は云った。
それからひざの上に拡げて、指ででながら、
「いい外套だこと」と、ひとりごとのように云う。
「いくらになる」と、僕はいた。
「そうね……」彼女は笑った。「おとうさんに訊いてみなくちゃ」

村上春樹氏の言っていたことだ―安岡氏の小説では肉体的/性的な女性に対する妖精的な女性が出てくる。それが〈質屋の女房〉である。
この後の 
「それよりも彼女の云った「おとうさん」という言葉が僕を端的に刺戟しげきしていた。」
という一文も、氏の作品ではしばしば判断力のない無力な父親が出てくること、それも肉体的な母親と共に現れることを考えると、意味深かもしれない。

この「おとうさん」はどうやら「彼女の父親でない」らしい。
結局、持ってきた外套は「えりのこんなところが擦れている」と言われて「半値がせいぜい」と値切られる。

それだって悪い値段ではなかった。しかし、どうしたことか僕は、自分の人格が半値に切り下げられたような気がした。

この文には強い実感がある。
ここから少し飛ばす。

金を借りる側にとっては、いかなる場合でも相手に信用を博そう(筆者注:「好評を博す」の用例がわかりやすいか)とか、そのためには相手に好かれたいとかいう気持が絶えず働いており、それは恋愛によく似た心のうごきを示すことになる(略)

独立した警句としても読めそうだ。

おふくろは僕に何もさせたがらず、また僕がいつまでたっても何も出来ないということが彼女を満足させていたのだ。

母親という存在を特殊なカメラで歪めたなら、まさにこの「おふくろ」になるのではないか。
質屋の女房の言葉。

「だから、わたしは子供ができないのよ。このごろは、もうそんなに欲しいとはおもわなくなったけれど……」

彼女に生殖能力がないということも、彼女の「女」性の不在を際立たせている。

世の中は、いよいよ奇妙な混乱をていしていた。(略)
あらゆることが、中途半ぱで消えてなくなったり、かと思うと、いきなり途中から始まったりしているようだった。

「戦争」の要約としても読める。

(筆者注:「僕」が母親から)差し出されたのは、召集令状だった。―十二月十二日、高崎の歩兵聯隊れんたいに入営するように指示されている。あと一週間の猶予だ。

この前、「僕」は質屋の女房を抱きしめている―あるいは性的交渉を持ったのかもしれない。

彼女は僕に「僕の外套」を「差し出」す。

僕は胸の中が真っ黒くなるような気がした。決して忘れたわけではないにしても、彼女のことを思いやることがまったくなかったのは、たしかだった。

「途中で風邪かぜをひかないように……。それから、これは失礼かもしれませんけれど、あの方はあたしからのお餞別せんべつにさせて」
質屋の女房の言葉だ。「あの方」は、おそらく「僕」との性的交渉だろう(ただし本文には「抱きしめ」たとのみある、しかしこの年の男女がそれだけというのも不自然に思える)

この短編は、「僕」のエゴイズムが書かれていることに特徴がある。
それまでの安岡氏の作品では、しばしば生活能力のない父と肉体的な母の間で、ふらふらさまよう放蕩ほうとう息子―「僕」が書かれてきたように思う。
それは戦後の「あらゆることが、中途半ぱで消えてなくなったり、かと思うと、いきなり途中から始まったりしている」社会における個人のありかたとして、決しておかしいものではない。
しかし、人間というものは生きている以上、必ずエゴイズムを―大なり小なり―持っている。
その点を鋭く捉えた短編として、「質屋の女房」は優れている―この後彼が向かう戦場こそ、人間のエゴイズムがむき出しになる場所であることも含めて。
1960年、氏40歳の作品。

(余談)なお、途中で話を出した村上春樹氏も、初期は無意味な暴力の続いた学生運動へのアンチテーゼとして何とも深い関係を持たない「僕」を書いていたが、その後「ねじまき鳥クロニクル」など、人間の持つ悪や暴力を見つめた作品を書いてきた。
人間は生きる以上、必ず他者を損なう。その対象はしばしば「質屋の女房」のように、力の弱い存在だ。
どうでもいいが、キリスト教の「原罪」がもし本当にあるなら、それはこの点にあると筆者は思っている。

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