三島由紀夫「にっぽん製」「恋の都」

三島の娯楽小説は(ほぼ)つまらない。「命売ります」はそれなりだが二度は読めない。

ただこの前読んだ「複雑な彼」が面白く(今度「肉体の学校」とまとめて扱うつもりだ)、その勢いでパッパラパッパラ読んでしまった。
読んだからには書く。書くが読むに足る中身はなく、単に機知が富んでいたり、個性の煌めきが覗けたりする落ち穂を拾う記事である。了承願いたい。


にっぽん製

服飾デザイナーの美子よしこと柔道家のただし。彼らの恋路の模様や如何に……という筋立てだがつまらない。
三島の小説の定型に、A/Bという対応概念を持ち込み、彼らの対決がアンチクライマックス的に―要するに大して盛り上がることなく―解消される大枠がある。
本作にあるのは美子の義理人情/恋心の対立。
前者の代表が前々から恩になっている金杉老人。後者の代表が柔道家の青年の栗原正。

最後、美子は結局金杉老人を―義理人情を―選び彼と結婚する。栗原は?
彼は青年らしく美子の手を掴んで、「ほら、あんな爺さんなんか……!」そのまま美子と北海道かロシアへ駆け落ちし……
いや、そんな美しい物語が白けた戦後に成立するはずもないのだ。

正は沈思黙考の上、返事をした。(略)しかもそれはこれ以上彼流にはできなかったろうと思われるほど、彼流の返事であった。
「はい、僕待っています」

p221.

一体何を?爺さんが死ぬのを?目的語のすっぽ抜けた「待」つ時間の、昼下がりの葉巻の煙の行方を追うともなく追う目の動きに似た鈍い疲れ。
ここにあるのはそれだけでしかない。
娯楽小説に最も必要なディケンズの大胆さ―即ち「めでたしめでたし!」―を欠いた、何ともいじけた結末である。

失敗している原因は色々とある。
まず、三島由紀夫の小説としては対立する概念の人(?)選が失敗と言わざるを得ない。三島の作品にはもっと人工的で冷淡で、人間という生身をせせら笑うような概念が誂え向きであり、義理人情/恋心などいう人間世界から一歩も出ない対立の構図を持ち込んだ時点で、すでに三島一級の抽象性はダレた戦後世界に鈍い怠惰を抱いて寝てしまう。
こんなものは壺井栄に任せればいい―せめて義理人情だけでも退かせばまだマシだったろう。

次に娯楽小説としても問題が多すぎる。
まず、本作はハッピーエンドにしてよかった。三島本人が使った言葉(だったはず)を借りれば「時代と寝る」小説にするべきだった。
美子の職業が服飾デザイナーというのは、あからさまに女性読者に媚びている。
人々は努力次第で階級を(それなりに)移動できるようになったが、なお憧れに留まる職業。
もちろんそこにあるのは(三島からすれば)安価な夢の残骸に過ぎなかったろう。花の都パリの幻想、独創的で実験的な洋服たちの山、同僚との気の利いた専門用語混じりの会話……

そうした夢は、しかし彼女たちの埃っぽい日常(何より当時は家父長制も強かったはず)を彩った。それも事実のはず。
この事実を三島は取り逃したように思う。彼女らの夢を冷笑する結果、物語は柔道家との恋愛という三文喜劇で終わってしまう。それならまだ二流の抒情のもたらす酩酊の方がマシだ。

ただ途中、泥棒の次郎が恋愛物語を引っ掻き回すのはそれほど悪くはない。
こうした物語的滋味をもっと加え、ディケンズ風味の人間愛が臭う娯楽長編に持ち込めば良かった。

以下、かろうじて読める部分。

初冬の星空は美しかった。
星がみんな角があって、それがひとつひとつナイフのようにかがやいている感じだった。大空いちめんの遠い無数の刃物……。

p55.

冬の星空・抒情性とナイフ・暴力性が結びつき、それなりの詩情を見せているか。

恋の都

まゆみというバンドマネージャーは戦中に死んだ右翼青年の五郎を想い続けている、ところが五郎は生きていて!?……

ネタばらしすると、五郎は「フランク・近藤」―アメリカ人となり生きながらえていた。彼の転向振りはまゆみを驚かせるも、結局彼女は五郎のプロポーズに

まゆみは、感情をまじえないはっきりした声でこたえた。
「イエスですわ」

p626.

と答える。

日本人が「アメ公」に成り果せることでしか生き残れなかった「戦後」。このテーマそのものは批評的な魅力があるが、如何せん雑味が多すぎる。ここに来るまで、まゆみのバンドを巡る物語のダラダラ長いことと言ったら!

この「フランク・近藤」の逸話を冒頭に持ってこれなかったか。そして彼の―分裂した―主体を喜劇的に書くことで、物語自体を悲惨と滑稽さの重なる批評的な小説として体系づけることは叶わなかったか。

―まゆみにはわかっていた。(略)今日世界は一変し、まゆみの生きる力としていたものは、少くとも崩壊してしまったことが。

p581.

余談


戦中「国のために死ね」―さもなくば殺すぞ非国民!と脅した権力は戦後、突如こう言った。
「国のために生きろ!」
笑うしかない。
現在の自民党に至ってはこうだ。
「国のために生きろ、ただし国に頼るな。自力で生きろ、役立たずは死ね!」
かつて国のために死ねと脅した連中の子孫がこれを言っている、やりきれない。 

権力の脅し方が「殺すぞ!」から「生きろ!」に切り替わった戦後。
たとえばマイホーム、消費と紐付けられた豊かさ、赤提灯……抑圧された生の見せかけの豊かさに人々は酔い、深い批判性に立脚できなかった。

三島の小説によく、消極的なやり方で二項対立が解消されるモチーフがあると前話したが、その原体験はここにないか。
たとえば彼より十歳年下の大江健三郎氏にこの捻じれはない。
(氏の戦後民主主義を全肯定するその論調は、呑気に感じないと言えば嘘だがまた、眩しい)
大江さんは権力とそれに潰される人間の脆さを書いたが、その書き方は「殺すぞ!」の権力―帝国主義的な権力に留まるように思う。
村上春樹氏から中村文則氏に至るまで、日本文学の先陣を切る作家が書く権力はいつも、「殺すぞ!」側の権力である。
「生きろ!」側の権力はその正体が見極めがたい。人間の生を分化・選別し、本来等しい人と人の間に亀裂を入れ、連帯する力を蝕む不気味な暴力性は、単純な脅迫に依拠する権力のイメージに隠され、充分批判されることがなかった。
その点、三島氏は(権力下の人間の損なわれを書くに留まった消極性はあるが)この「生権力」の正体に、わずかに迫ったように思うのだ。社会保障、雇用、治安―すべてを与えるかに見える平和の背後に蠢く、陰湿で根深い、低音やけどのような暴力に。


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