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J・M・クッツェー「モラルの話」くぼたのぞみ訳

全7篇。順番に「犬」「物語」「虚栄」「ひとりの女が歳をとると」「老女と猫たち」「嘘」「ガラス張りの食肉処理場」と続く。

先に「犬」と「物語」について解説する。

「犬」:一人の女性が主人公。
彼女は近くを通るたび吠える犬の苦情を家主に伝えるが、暴力的に追い払われる。ヘミングウェイの作品を連想させる、乾いた人間の暴力性が印象に残る短編。

「物語」:不倫に罪悪感を抱かない女性の物語。ムージル著「特性のない男」が作中で言及される。古井由吉氏が好きな方なら知っているかも。

残りはエリザベス・コステロ物。
エリザベス・コステロとはクッツェーの想像した女性作家。過激な動物愛護精神を持ち、周囲の人間からは煙たがられる。
短編集「動物のいのち」「エリザベス・コステロ」「モラルの話」、長編「遅い男」などに登場する。

あらかじめ言うと、筆者も初めこの設定を知ったとき「なんじゃこりゃ」と思った。
クッツェーの受賞しているノーベル賞は結構「お上品な」賞である。
その結果エリザベス・コステロ物も「知識人のお説教小説」と勝手に決めていた。
ただ、読んでみてそのイメージが良い方に覆った。ので皆さんももう少し話を聞いてくださると嬉しい。

「虚栄」:高齢の女性、エリザベス・コステロは白髪を染め厚化粧する。もう一度若いときの異性から求められる感覚を味わいたいのだ。
しかし息子と娘は(彼らはこの後もコステロの批判者として登場する)彼女の振る舞いをやんわりと非難する。チェーホフの小説の登場人物のようだと言って(チェーホフの場合はウィッグだったという、なおどの作品か明言はされない)

「ひとりの女が歳をとると」:タイトルにある「ひとりの女」はエリザベス・コステロを指すだろう。
気難しくなり、歴史、社会風俗、アメリカを強い言葉で非難する高齢のコステロ(オーストラリア在住)と、彼女に自分たちの目の届く範囲に移住してほしいと願うコステロの子どもたち(フランスのニース在住)。
彼らはすれ違うも、この短編では何とか和解に近い地点までたどり着く。
途中、コステロと子どもたちはトランプ勝負をする。ここは抑えられた筆致で書かれていながら感動的である。

「老女と猫たち」:今ではスペインに住んでいるコステロ。彼女は猫たちとパブロという知的障がい者と暮らしている。猫に避妊手術を施さないため猫は増え続けている。
息子のジョンは母のコステロを非難するが、彼女は取り合わない。
猫に対するコステロのシンパシーは狂信的ファナティックなものを含む。彼女は「母であること」を根拠に猫を庇う。

ジョンが苛立つのはコステロの主張が自分たちの当然の権利を侵害することに対する苛だちでもあるだろう。
今のフェミニストや性的少数者もその主張のほとんどは正しい。が筆者も―正直に言えば―少し不愉快さを感じた経験はある。
それはそれまで私が自明に受け入れていたものが他者の「モラル」で裁かれるとき感じる、自己への侵害の不愉快さなのだと思う。けれどそれを受け入れなければ、私は私の小さい世界の王様になってしまう。
話がそれた。
そう、しかもその「モラル」がコステロの主張のように極端に受け入れがたいものであるとき、多くの人は激しい不快感を覚える。
そのとき何を対話の根拠にするべきか。「老女と猫たち」の問いに対する答えに求められているのは一義的な正しさではない言葉だろう。

「嘘」:「老女と猫たち」から続く短編。年老いてなお自己決定権を手放さずスペインに暮らすコステロと、彼女の老いを突きつけ介護施設に送ることのできない息子のジョン。
やはりどちらの主張が正しいわけでもない。日本も高齢者の多い国である。「老い」を問うこの短編はこれからの日本でますますその意味を強めていくのではないか(成長を肯定するこの国は、人が老いること、衰えること、壊れていくことを考えてこなかったようにも思う)。

「ガラス張りの食肉処理場」:コステロは深夜に息子に電話をする。話の目的である彼女の計画は、街中にガラス張りの食肉処理場を建設するという非現実的で滑稽なものだ。
その後彼女は彼に自らの草稿を送りつける。自分ではもうまとめる力がなくなってしまった、と言って。
コステロは草稿でもウサギやひよこなどの存在を例に、ジョンに人間の存在の相対性を問う。作中の言葉を借りるなら「狼とバッタ、狼とわたし、どっちがより似ている?」。

その主張は、今では「頭のおかしい人々」とレッテルを貼られてしまった(本来はごく一部の過激な)フェミニストの主張を思わせる。
もしコステロの主張を実現した場合、数多くの職業がこの世から消えてしまう。また、私たちの食生活も大きく制限されるだろう(まだ魚があるだけ日本はマシだ、内陸国はタンパク源をどうするのだろう?)。

しかし、面白いのはこの「バカげた」コステロの主張を聞いているうち、奇妙に説得されてしまうのだ。
といって筆者がヴィーガン思想に共鳴したわけではない。
ただ、コステロの主張は、表面的には「感情的な紋切り型の動物愛護」の主張のようで、実際はもう少し大きな何かについて喋っているのではないのか。

これについてもう少し説明したい(本文の紹介は後ないので、中身の知りたかった読者は読み止めていい)。
大江健三郎氏の中期短編集に「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」という作品がある。
ただ、今手元になく、記憶頼りになる。細部が違っているかもしれない。
二篇紹介する。
「核時代の森の隠遁者」:隠遁者ギーと呼ばれる奇妙な男が焼死するまでを書いた話。彼は奇妙な詩を叫ぶ。都市はじきに滅びる、代わりに森が力を取り戻す、核時代(冷戦)を生きる人間たちは森に隠れ住め―そんな詩である。
「生け贄男は必要か」:「善」と呼ばれる大男は終戦間もなく、帰還兵の肉を与えられ生き延びた。
その罪に対する贖罪として、彼は現在、ベトナム戦争の孤児たちに己の肉を分け与えようとする。

一読してわかるように、彼らの奇妙な、そして熱狂的な主義主張はエリザベス・コステロと共通する部分がある。
彼らは常に両義的な(氏の言葉を借りるとambiguousな)存在である。隠遁者ギーはただの妄想狂かもしれず、「善」は子どもたちに人肉を食わせようとする異常者かもしれない。
しかし、彼らのそのいびつな主張は、それゆえに「まともな」私たちの固定観念を揺さぶる。世界の、別の見方を示そうとする部分がある。
筆者は彼らの延長に救い主キリストを想像する。彼の言葉には、私たちの一般的な道徳やモラルに背く部分がある。
しかしその言葉が多くの人々を引き付けてきた。
クッツェーのエリザベス・コステロ、大江健三郎の隠遁者ギー、「善」たちにそれだけの力があるかは、読者の皆さんの判断に委ねたい。どうだろうか。

長い記事だった。読んでくれて感謝する。

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