(一応)「わたしを離さないで」の話

「イギリス文学は家庭へ、アメリカ文学は荒野へ向かう」
多少覚え違いがあるかもしれないが、翻訳家、柴田元幸氏の言である。

そこには国家の性格の違いが現れている。

イギリスは古くは1066年、ノルマンディ公ウィリアムがイングランドを征服したところから始まり、名称が「Great Britain」(大ブリテン王国)となったのさえ、アン女王治世下の1707年までさかのぼる。

一方のアメリカは、「13植民地が」独立したのが1776年、最後の(第五十)州、ハワイ州が成立したのは戦後の1959年である。

だから、イギリスという国家は慣習が生きており、そのなかに人々もいる。
作家だと、「高慢と偏見」のオースティン、「オリヴァー・ツイスト」「二都物語」のディケンズなどが挙げられる。前者は姉妹の「結婚」という社会制度を巡る物語、「オリヴァー・ツイスト」も、単なる孤児の冒険小説ではなく、当時のイギリス社会の児童労働の悲惨を訴える側面があった(煙突掃除に体の小さな子供はうってつけだった。しかし煤煙によって肺を病み、また、膝の関節が煙突を登るとき擦れてすり減り、後には歩くのが困難になるケースも珍しくなかったという)。

一方のアメリカは、「白鯨」のメルヴィルと「ハックルベリー・フィンの冒険」のトウェインが挙げられる。
「白鯨」は、筆者も詳しくはないが、一頭の白鯨を殺すことに執念を燃やすエイハブ船長と、語り手イシュメールの物語……のような何か、というのは聞いている。
確か柴田氏は「白鯨」について、「モダンを飛び越えてポストモダンに行ってしまった小説」と喋っていた。とにかく、相当実験的な小説であるのだろう。

「ハックルベリー」について、私は大江健三郎という作家の語りとともに記憶している。私の記憶頼りの話だから、細かいところが間違っているかもしれないが。

大江氏が「ハックルベリー」を初めに読んだのは氏が子どものころ。同時に強い印象を残したという。
時代は戦後すぐ、(私の想像する)「図書館」のようなものはなかった。大江氏の出身地は四国の山深い地域でもある。地域の家から集めた本が、公民館の端に集められている状態だった。

大江氏が「ハックルベリー」で印象に残ったシーンは、ハックルベリー少年が黒人の逃亡奴隷ジムといかだで川下りをする箇所。
ハックルベリーは、逃亡奴隷であり黒人でもあるジムを自分が助けたなら、自分まで「人非人」(当時の実感としてこの差別語はあったと思われる)になってしまう、と恐れる。

しかしそのあと、ハックルベリーは言う。
「よし、それなら人非人になろう」、と。そして、ジムの逃亡を手助けする。
この、「よし」と決意する、勇気を持つハックルベリーの姿に、大江氏は子どもなりの勇気を持つことの大切さを学んだ、という。

また「オリヴァー・ツイスト」と「ハックルベリー」を同じ少年を主人公とする小説として比べてみる。
すると、オリヴァーのほうは確かにスリ集団に組み込まれるなど何かと大変な目に遭うも、一応「社会制度」のなかにいることにはいる(極めて下位であるが)。
また、オリヴァーはブラウンロウという紳士に助けられるなど、大人たちにそれなりに「庇護」される。
他に、オリヴァーの所属しかけたスリ集団の元締めはユダヤ人のフェイギンであり、最後は処刑される。この描写には、当時のユダヤ人差別に対する充分な批判意識はない。

一方「ハックルベリー」は真逆である。ハックルベリーは社会制度から大きく外れ、大人の世界からは逃げる。黒人奴隷は助ける。筆者も、比べるとハックルベリーのほうが好きだ。

もちろん、ホーソーン「緋文字」のように割と慣習のなかのアメリカ文学もあるが、やはり基本的に、「イギリス文学は内側を」「アメリカ文学は外側を」志向する傾向にあるようだ。

本題である。カズオ・イシグロの小説は、その意味ではかなりイギリス的な文学だろう。

筆者はカズオ・イシグロ氏の長編八作のうち四作を読んでいる。半分欠けた読書感想なのだが、それでよければ。
筆者の読んだ限り、氏の小説は、「時代」や「立場」に縛られた人々の小説であるようだ。
たとえば「浮世の画家」は、二次大戦のさなか、戦争賛美の絵画を描いた絵師の物語だった。「日の名残り」は一人の執事が、主人がナチスの支持者であることを自己意識のなかで押し殺し、(確か)自らの恋心さえ潰す。

「わたしを離さないで」も、似た系統に位置する小説である。
「ヘールシャム」という、臓器売買のため育てられる子どもたち―トミー、キャシー、ルース―計三名を軸に、キャシーを語り手として語られる小説である。

ただ、筆者の読んだ限り、正直それほど
「臓器売買」を扱った衝撃はなかった。何かしら、アンダーグラウンドな暴力性とかドラマチックな物語があると期待して読むと、(おそらく)肩透かしを食らう。

ただ、これもカズオ・イシグロ氏の計算だと思われる。たとえば難病を患った人間を「人為的に」殺すことを「安楽死」や「尊厳死」と言い換えるように、また、現在の政府が「曖昧語」を意識的に使うように、人間の意識とは、極めて「言葉」によるコントロールを受けやすい。これは筆者もそうで、無意識に色々なことを信じてしまう。怖いことだ。

この小説の柔らかな語り言葉は、「命の利用」というタブーを、まるでオブラートのように覆って、飲み下しやすくしてしまう。「語り」の言葉が持つ、「隠蔽」能力であり、「わたしを離さないで」の特徴のように思う。カズオ・イシグロ氏の作品全体に共通する特徴、と言っても良いか。

筆者が覚えているのは、キャシーがポルノ雑誌を素早くめくるシーン。「ヘールシャム」の子どもたちは後々臓器を売る関係上、性的行為は(確かかなり)制限されていた。
どうしてめくっていたのか。途中、ドッペルゲンガーの噂に関わる物語があり、キャシーはそれを探していたような気もするが、細かい下りは忘れてしまった。
それを、トミーが見つける。彼はキャシーに、「そういう雑誌はそんなに早くめくるものじゃない」と言う。「もっとゆっくり、想像しながら読むものなんだ」と。

それだけの話だったのだが、なぜか私はそのシーンが記憶に残っている。

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