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梶井基次郎「筧の話」の謎

筧。今ではなかなか使わない言葉だ。調べると、「地上にかけ渡して水を通じさせる、とい。」とのこと。

本題は梶井基次郎の「筧の話」。これが、実に謎の作品なのだ。

まず、話者は「散歩に出るのに二つの路を持っていた」と述べ、その一つは賑やかな街道、一つは静かな山道だと続ける。
それから話は山道側に移り、更に植物や、木漏れ日の話につながる。
そこに筧がある。話がややこしくなる。

まず、この話者は筧の水の音が、その筧のものだと信じられないらしい。「いや、なぜ?」と思うのだが、彼(話者)いわく、「聴覚と視覚との統一はすぐばらばらになってしまって、変な錯誤の感じとともに、訝(いぶ)かしい魅惑が私の心を充たして来る」らしいのだ。

……もうよく分からなくなってきた。しかしまだ話は続く。
どうやら、この男は筧の鳴らす水の音に、何か神秘的な感覚を覚えるらしい。本文だと、
「やがてそれは幻聴のように鳴りはじめた。束の間の閃光が私の生命を輝かす。そのたび私はあっあっと思った。それは、しかし、無限の生命に眩惑(げんわく)されるためではなかった。私は深い絶望をまのあたりに見なければならなかったのである。」

……???相変わらずよく分からない文章だ。この後には「何という錯誤だろう!」という詠嘆文が続く。
この文の「錯誤」は、「訝(いぶ)かしい魅惑が私の心を充たして来る」その「魅惑」と共にある「錯誤」と同じものだろう。

つまり、この話者は
その1 筧の水の音が筧と結びつかない
その2  「その1」の事実に話者は不思議な魅力を感じている
その3 話者は「その1」の事実に深い絶望を感じてもいる
この3点で、話者は「筧」と関係を持っている。

ここで注目すべきは、「そしてそれら(筆者注:筧と筧の水音が結びつかないこと)は私がはっきりと見ようとする途端一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。」
つまり、「はっきり見ようとする」―男の視覚に対する意識の集中が、この幻想を壊してしまうことである。

そして最後、話者は筧にかつての神秘的な感覚を感じられなくなっている。
「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」
という謎めいた言葉を残して、梶井基次郎はこの小説を閉じる。

完全に「それあんたの読みだろ」と言われることを覚悟して書くと、この小説の目に映る筧を現実、耳に響く水音を可能性、と読み替えてみればどうか。

作中、「筧の話」の話者は水音の存在について
「私に課せられている暗鬱な周囲のなかで」それが鳴るのだと説明している。この「暗鬱な周囲」は、この後の「一つに重な」った「退屈な現実」と同じ意味だろう。水音は退屈な暗闇のなかで鳴っている。

難しいが、「水音」とは、「この世ならぬ何か」の可能性を示すのではないか。現実の、視覚的な(暗鬱な周囲の風景のなかの)「筧」による音ではない、話者にも把握不可能な「理想の光」、「生の幻影」―超自然的な音、彼岸性を持った音、この世ならぬ世界から来る通信として、水音はあるのではないか。

しかし、「理想」も「幻影」も、現実のなかでは身の置きどころがない。だから、話者は魅力を感じる筧の水音のもたらす錯覚のなかにいつまでも浸れない。それほどたやすく現実を無効化できないのだ。

最後の一文は、そうした(視覚的な世界としての)現実の逃れがたさと、そこから逃れる可能性がいつまでも可能性のまま終わる(理想は現実に敗れ、幻影もいつか消える)絶望を示していると読めばいいだろうか。

序盤の街道と山道の比較、後半の聴覚と視覚、「理想の光」と「暗黒の絶望」に「生の幻影」と「絶望」まで、二項対立が「筧の話」では多く用いられている。そしてそれらが、単なる「善と悪」といった対決する構図で終わらずに、逃れがたい現実とその慰めとしての幻という複雑な関係(後者は前者なくしては存在できない、幻の水音が、退屈な現実の筧なくしては鳴らないように)、相互依存的な関係として書かれている。ここに、筆者は作者梶井基次郎の優れた観察眼と自省を見る。青空文庫のリンクを貼っておく。よければ。

「筧の話」読解に役立ちそうな記事を見つけたのでここに載せておく。露草の下りは筆者は完全に無視してしまった部分だが、この記事の読解に大きく教えられた。ぜひ。

(余談)「筧の話」の「退屈な現実」が「美しい幻影」を生む構図は三島由紀夫作品でおなじみで、「金閣寺」の吃音症の僧侶の語る美しい金閣寺の幻影や、「癩王のテラス」のハンセン病を患った王の造る美しい遺跡にその典型が見られる。

(追記)改めて思うのは、たった一つの「筧」のなかに死と生の形を見る、ある意味アニミズム的な感覚である。「筧の話」が梶井基次郎の私小説としてそれほど読み取れないのも、この小さな「筧」に死生の感覚まで読む、梶井基次郎の宇宙的/詩的スケールのせいかもしれない。

大げさというなら、何よりこの作家はたかがレモンに大爆発を期待する作家なのだ。

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