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朗読LIVE 60 筧の話(後半)

露草が好きだ。あまり身近にないので、見かけるととても嬉しくなる。それまで気づいていなかった青が、急に見える時がある。小さな宝石でも見つけたような静かな嬉しさがある。それまで見えなかったことが不思議なくらい、あれ、こんなに咲いている、と驚かされる。
作中、確かに聞こえているように思うが見えない水音、じっと聞いていると、ここでないような、幻聴のような気もしてくる、という喩えとして露草の見え方が使われている。この喩えの飛躍もすごいなと思うのだが、さらに最後には生の幻影ということにまでつながっていく。
最初、この露草が何を喩えているのかよく理解できなかったが、今朝になってようやく図と地の話かと思い至った。ある部分に意味を見つけて注視すると、それ以外の部分は背景となり、意味を失う。背景となっていた部分に意味を見つけると、今度はそれ以外が背景となってしまう。この二つの意味ある図を同時に捉えることはできない、というものである。
露草の青が見えたとたん、周囲の緑は背景として退く。しかしすぐに緑に紛れ込んでしまう。水音がそこにあると思った時にははっきりと捉えられるのに、すぐに背景の音の中に消えてしまう。いや、消えず幻聴を生じるまでになる。そして、生きているという実感を捉えた途端、退屈の中に紛れ、絶望する、ということか。生きているという輝きはそんなにも紛れやすいものなんだろうか。いや確かに、あんまり意識して日々を過ごしてはいないか。でもだからこそ、凡人はそんなに絶望もせずに過ごせているのかもしれない。
露草のことを書いたものはないかなと検索結果から気軽に選んだのであるが、作家の発想の飛躍具合に驚かされた一編だった。

筧の話(後半) 梶井基次郎

朗読は、1分50秒くらいからです。


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