川野芽生「無垢なる花たちのためのユートピア」
目元より上を、白と赤紫のまだらに混ざった花に覆われた中性的な未成年者。
白い布地の、上は肩の出た柔らかな服、下は同じ生地の、太ももの中ほどまでを覆う半ズボン。
目元の花びらは今しがたも散り続けている。
副題の「THE NOWHERE GARDEN FOR THE INNOCENT」の文字列は白い蔓の装飾に両端から挟まれている。
背景には水のような空のような青色。
本作「無垢なる花たちのためのユートピア」の表紙である。
実際本文を読むと単なる美しさではなく醜さが、美しさと対立でなくむしろ、横置きで描かれるが、その上でなお美しい短編集である。
こうした作品を感性も品性もなく煩悩にまみれた筆者が扱うのはどうかと思うが、扱いたいので扱う。
無垢なる花たちのためのユートピア
本作の始まりはまずこの二人の少年たち―矢車菊から彼の憧憬の対象である白菫へ向けられた語りで始まる。二人は天空のユートピアを目指す船に乗り合わせているのだ。
しかし白菫はある日船から墜ちてしまう。事故だと少年たちも言うが矢車菊は納得できず、密かに真相を調べていく。
この船には七歳〜十七歳までの「七十七人の少年たち」が「七つの寮に分かれて住んでいる。」同時に「七人の〈至高なる方々〉」が「一人ひとつの寮を受け持っている」。
花の名を冠された少年たちは「聖歌を歌い、オルガンを弾き、体操をし、決められた本を読ん」でこの船で過ごす。
天空のユートピアを目指すまでもなく、すでにこの船がユートピアではないか。
ところがこの船にはある秘密が隠されている。年かさの少年である冬薔薇の視点から真相が語られる。
「七人の〈至高なる方々〉」は、少年たちの心の内側にある「花苑」の「花を啖う。」少年たちは「何よりも慕わしく懐かしいその声に逆らうすべを知らない」まま、「花を差し出」し、「その後で(略)自分を汚れた、欠けた、価値のないものと感じ」させられてきた。
天空のユートピアは本当にある。だが、そこにたどり着くのは「七人の〈至高なる方々〉」であり七十七人の少年たちではない。少年たちは花を生み出す「美味しい餌でいるためにこの船で飼われていた」に過ぎないのだ。
最後、少年たちは地獄絵図の地上への帰還と偽のユートピア幻想の間で葛藤し、しかしついに「七人の〈至高なる方々〉」を殺す。
だが少年たちが本当にユートピアにたどり着くことなどあるのだろうか。
冬薔薇の最後のモノローグ、
は極めて重い。しかし、それでも少年たちは偽のユートピアを手放した。そこに微かな希望を読むのは間違ってはいないはずだ。
白昼夢通信
早々匙を投げるようで申し訳ないが、何とも掴みどころのない短編なのだ。
二人の女性の書簡体小説なのだが、片方の瑠璃はドラゴンの末裔だし、片方の、のばらは本物ののばら(しかも実は「魂を持ったお人形」)と入れ替わった人間らしく、おまけに手紙を送り合っているのは夢のなからしい。
一つ、印象に残った一節を引用して終わりたい。
人形街
「初老の神父」が「禁忌のように美しい」少女と暮らす物語。
少女の身内は近親結婚による遺伝病によって「一瞬にして凍り付いて人形と化し」ている。このとき少女は「左腕の内側に火傷を負っている」が、「その美貌の完全性を損ない」、塞翁が馬、「発症を免れた。」
しかし司祭は次第に少女の態度に苛立ちを隠せなくなっていく。ドストエフスキーの「やさしい女」を思い出した。深い愛が出口を見失い、暴力として吐き出されてしまう。
最後、少女は司祭の元を逃げだす。
少女はしかしこの後「はらはらと涙」を零し、「心をからっぽに、からっぽに、からっぽにして―」と自らに言い聞かせもする。人は人である限り、決して人形には―主体性を持たない空虚な存在には―なれないものか。
筆者もできればすのこ板に生まれたかった。
最果ての実り
父性原理に支配され、自由な心を持てないサイボーグと母性原理から離れられず、恋した瞬間種が弾け枯れる植物の少女の、心の交流を巡る短編。
最後、サイボーグの「彼」は
理屈ではなく、この幻想の確かさに目を凝らすべき結末だろう。
いつか明ける夜を
邑を地蟲から守る英雄は、実は地蟲同士を殺し合わせているだけだった―救済の欠けた夜のみ訪れる世界を、主に少女の視点から映した短編。
最後、ついに「夜明けが来」てしまう。
解説の言葉を借りるなら「世界は明るく照らされるはずなのに、深淵を覗き込んだような読後感が忘れがたい」結末。
卒業の終わり
「私」(雲雀草)と優等生の雨椿、ミステリアスな月魚―彼ら三人の少女たちの「外の世界と隔てられた」(解説より)学園におけるイノセントな関係を書いた短編、に初めは見える。
だが、いつしか「私」と雨椿の自他境界は揺らぎ、共依存的な歪みを抱えることになる。
また、この世界では学園の外で女性のみ感染する伝染病が蔓延しており、女性は少なくとも二十五歳までに死ぬ。学園はその事実を女性たちに隠蔽し続ける。
卒業の際、就職先の希望が出されるが名ばかりで、実際は監視カメラの映像を利用した容姿の美しさによる選別が行われていたに過ぎない。
女性たちに求められるのは限りある生とその先の死から目を逸らし、男性に都合のいいマスコットでい続けることだ。この状況は、今の私達の世界と瓜二つではないか。
本来女性たちの自己に属するはずの心身が、〈恋愛〉という構造―「男の性欲」と呼ぶべきか―に食い荒らされていくグロテスクさが小説の後半を覆っている。「私」の会社の男性に対する心中の反論、
は、筆者が言えることでもないが、深い絶望を伺わせる。
しかし希望もまたある。最後、彼女の卒業した学園はボイコットを起こすのだ。不条理で男性に支配された、女性が二十五歳で死ぬ世界に抗って。
そして「私」も月魚ともう一度関係を持とうと動き始める。
(追記)もしかすると女性が二十五歳で死ぬのも、「男性の性欲」の都合だろうか。醜いことだ。
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