汎化と局所最適化
意外と知られていないが、現代において間違いなく正しいとロジカルに自分が判断する真理、特に汎化と局所最適化について書く。
汎化の誤謬と局所最適化という真理
昨日、大学の同窓会の案内が届いた。自分はそのまま大学院に進んだため、大学院生でありながら同窓会の案内が届いたという感じではあり、まだ同窓会をしたいという気分でもなかった。気分は乗り気ではないが、同窓会の案内が入っている封筒にはどのようなものが入っているかは気になり、一応封を開けた。
封筒の中で同窓会の年会費に関する案内をまず最初に見つけた。年会費を必要とするのだから、同窓会を運営するのに費用が必要なのだろう。一人当たり2000円を求めており、卒業生は毎年150人程度出るのだから、一学年30万円を徴収できることになる。30年間続いているとすると、900万円を徴収できることになる。そんな莫大なお金を何にどう使っているかは疑問である。
さらに封筒の中を除くと、同窓会イベントと題して、講演会の案内も入っていた。その講演会は、自分の学科に関係しているある特定の分野に絞った講演会だった。自分の専門分野とは大きく異なるため、現時点でも正直興味は全く湧かなかった。
ここでとある真理に気づいた。
「汎化は生産者にはメリットをもたらすが、消費者にはデメリットが多い。特に複雑化する現代において、汎化は重要な要素を捨象してしまう。だからこそ多少の煩わしさを厭わず、生産者は特定の消費者に局所最適化することが重要である。」
つまり同窓会の例で言うと、生産者が同窓会を運営する団体、消費者が同窓会に参加する人たちということになる。
現状、同窓会を汎化する、つまりできる限り多くの人に刺さるような同窓会にしようとしていると思う。例えば、同窓会の連絡ツールをLINEやSlackにしてしまうと若者に最適化しすぎており、上の世代の人は対応できない。逆にメーリングリストにすると、上の世代の人はやりやすいかもしれないが、現在の若者はメールに慣れておらず返信率が低いかもしれない。そこで汎化によって、連絡手段を封筒としている。これなら、確かに若者も上の世代も対応可能である。しかし、どちらの世代にとっても最適かと言われるとそうではない。(若者である自分は紙だと管理が難しいため、電子化してほしいと思う。)
また先に述べた、セミナーも全員に刺さるかと言われたらそうでは全くないと思う。確かに意外と自分が興味がなかった分野に触れることで、それに興味を持つようなことはあるという意見はあるかもしれない。しかし思い返してほしい。ただ一度の講演会で影響を受けて、何かを始めたり何かにハマり出したことがあるだろうか。少なくとも自分はない。自分が元々興味がない話を単に聞くだけだと、そもそも聞く集中力も保てない。ある程度仲が良い友だちの話や自分が尊敬する人の話でであったり、自分の体を使って体験する中で初めて興味を持つようになるのだ。セミナーは学科に関係した分野として汎化しているのだろうが、当然刺さらない人も多い。
では、同窓会はどうすれば良いだろうか?
自分は各々の学年が同窓会を運営するようにすれば良いと思う。そして運営の仕方は当然自由。自分らの学年にあった運営をすれば良いと思う。
例えば、聞きたい話をLINEでアンケートをとり、その話をしてくれそうな同期に講演をしてくれないかと依頼する。同期なので依頼もしやすいだろうし、講演する人にとってもうちわの講演会なので、肩肘張らずに気楽に講演できるだろう。
また別の学年と連携してコミュニティとして多様性を取り入れたいのであれば、他の学年との交流会を開けば良いと思う。特定の分野、例えば「ソフトウェアエンジニア」「AI」「12年前に卒業した先輩」「パン好き」などの括りで集まるのも良いと思うし、消費者としての同窓会参加者にとっても有益だと思う。
ここまで見てきたように、同窓会を局所最適化することはメリットしかなさそうに見える。
しかしこれは消費者にとってのメリットであり、生産者にとってデメリットが多い。
局所最適化ということは、消費者に対して最適化をしないといけないことになる。つまり、時代、消費者の性質、生産者のリソースなどの変数をもとに最適化を行い、満足度という目的関数を最大化しないといけない。
それを行うためには、生産者には大きなリソースが求められる。
もし汎化をしていれば、同窓会の例だと、講演会のテーマを決めてから講演者を集め、毎年決まり切った時期に、例年通りの会場で、同窓会を開く。もちろん例年通り立食形式である。すでに体系化された運営体制があるので、毎年それに則って進めていけば良いのである。
この汎化は、生産者にとってのものであり、実は消費者にとってのものではないのである。
この汎化は、価値を届ける人の対象範囲は広くなる気もするが、その価値の質は下がるので、価値を届けていると言えるかは怪しい。
汎化によって見落とされた重要な真理
上記で述べてきたように汎化によって消費者にとって重要な真理が見落とされているように思える。(この気づき自体も真理であると思う。)
この汎化というのは、基本的には少し前の時代に行われたものだ。より多くの人に価値を届けるために一般化を行ってきた。その際に、その時代にとっては不要と思われるものを捨象してきた。しかしそれは現代にとっては実は重要な真理である可能性がある。時代という外部環境の変化によって、真理というのは日々刻々と変化するのだ。
それでは私たちはどうすれば良いのだろうか?
現在当たり前にそして一般に普及するモノの汎化がどのような経緯で行われてきたかを知ることが大事である。特にその汎化の中で、何が捨象されたか、そしてそれはどんな時代背景の元、なぜ捨象されたのかが重要である。
この捨象されてしまったけど、現代においては真理であるものというのが、現代において求められているものであり、価値提供のタネになると思う。言うなればこれが「隠れた真実」である気もする。
自分も「隠れた真実」を見つけるためにも、日頃から現代において当たり前になっていることがなぜ、当たり前なのかどういう経緯で一般化されたのかを考えるように習慣づけていこうと思う。
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