『ドント・ウォーリー・ダーリン』/自分ファースト世界への異議申し立て(映画感想文)
「ネタバレ」という言葉がこれだけ広まっているのには(物語の)ネタをバラしてはいけない、という当然のことが不文律として理解されているからだと思うのだが最近は公開する映画会社でさえTVCMや予告で予測可能な中身の断片をどんどん流すので本当に真っ白な状態で作品に臨むということが難しい。
『ドント・ウォーリー・ダーリン』(22)を観た。
内容については何も知らない状態で観賞。スリラーなのかサスペンスなのか、はたまた妻がオカシクなって夫婦間に亀裂が走る物語なのかも知らずに。すべての映画がそうだと思うが特にこの作品に関しては白紙で臨むのが正解だと思う。筋書きが判ればそれで終わり、ということではなく細部に潜む不吉な予感を主人公といっしょに感じ取りながら、うねりに身を任せるのが正しい。
観ながら人生について考えていた。
「自分で決めた目的にむかって邁進しつかみ取る人生」と「他者への献身を優先し人に褒められたり喜ばれたりすることで充実を得る人生」の二通りがあるのだと。どちらがいいか悪いかは容易に判断できることではなく、べつに前者の人が「自分の目的のために他人をすべて踏み台にしている」とも思わないし、後者を「自身の核の部分が空っぽの他人次第の人生だ」と決めつけることもできない。
僕自身にしても、常に「自分の人生というひとつの単位として見てそれを俯瞰したときに」どう思うか、という考え方を判断の基準に置いているので、その点でいえば前者なのだが、ふと振り返るとある時期から後者的な行動も多く選び取っている。
その影響として20年近く勤めた企業のなかでお客さんや他部署の人に(自分の意図とはしたことがぜんぜんズレていても)喜んでもらえることが多々あり、それで辛い仕事に充実を得ることができたという経験がある。こういう他者との関わりのなかでちょっとした嬉しさや幸福な気分を味わうという経験がないと、SNS上で他人の言動にケチをつけたりお母さんのベビーカーに文句をいったり、マナー違反をネットに上げて彼岸から中傷する〇〇警察な人になってしまい、「他人は間違っている。自分は正しく自分の言動には価値がある」といった思考が根底にできてしまうのではないだろうか。世界という他者のいる広範な場において自身の考えを検証することができなくなっているのでは?
『ドント・ウォーリー・・・』の監督はオリヴィア・ワイルド。女優として多数の作品に出演、という経歴だが僕がピンときたのは一作しかなく、それはイーストウッド監督の傑作『リチャード・ジュエル』(19)に登場する記者キャシーだった。そう、イケすかない高慢ちきで女性であることを武器に汚い手をつかい情報を得ようとし、自分の信じた通りに世界も共感すると思っている独善的な女記者役。
そのワイルドが『ドント・ウォリー・・・』で描くのは、この価値観のズレの恐ろしさでもある(これ以上はもう書きません)。
『リチャード・ジュエル』はご存じのように実際に起こった事件を扱い、登場人物として描かれる人物はほぼ実在の人物だ。ジュエルを英雄から犯罪者に一転させるのに大きな一役を買った記者キャシー・スクラッグスも当然そうで、しかし彼女だけはもうすでに故人。その彼女が「捜査官から色仕掛けで情報を引き出そう」とする描写は物議を醸し、イーストウッドとワーナーはAJC(アトランタ・ジャーナル・コンスティチューション)から「誇張である」と正式発表するように抗議を受けている。ワーナー側はそれに従うことなく「ジュエルの冤罪を生むきっかけとなったAJCが非難してくるのは残念だし皮肉なことだ」と逆に切り返しているが、これはワーナーに分がある。なぜならオリヴィア演じるキャシーは傲慢で自分が見聞きし信じた考えしか取り入れない嫌な女だが、しかし彼女は自分で確かめ「違う」と思ったときに即座に、その判断に基づき行動できる人物として描かれているのだから。たとえプロセスにおいて「女」であることを利用しそのことで男性社会を助長するといった役であっても(『リチャード・ジュエル』という映画作品においては)重要なことはその先にあり、一度抱いた自分の考えであっても揺らがせ検証し、そして訂正・修正ができる人物だったというように描かれているのだから。
最近のトレンドとして、多様性だ女性蔑視の克服だ、といったことを標榜しつつも、それはまだ判りやすい表面的な対処しか求められていない、あるいはできていないように思える(どこかの映画会社の違和感アリアリのキャスィングなどを見れば、…。それで根本解決になると思っているのなら、問題の核心が理解できていない証左だ)。価値観の相違が容易く分断を生むのも恐ろしい。それはトランプに象徴される自分ファーストの考えの蔓延、ひいては相容れない他者に対する嫌悪や攻撃の危険性だと僕は考えるのだが。
前大統領ドナルド・トランプはある一点において優れた大統領だったと僕は思っている。彼は米国史上唯一の新たな戦争を始めなかった大統領なのだ(オバマでも米軍による攻撃命令を出している)。北朝鮮や中国相手にブラフをかけ牽制しながらも彼は武力行使という最悪の手段を取らなかった。優れた経営者の手腕ゆえだと思う。戦争が起きればたとえ勝っても自軍に損失は出る。しかしある面では彼は最悪の大統領であり、それはご近所レベルの分断を多く生んだことだ。隣に住んでいる他人種に対する嫌悪を助長した点は許されない。自分以外のものは自分以下である、といった極端な考えにそれは結びつき大衆に不安を生む。たとえそれが仲のよい幸福そうな夫婦であっても。
最後にひとつだけ、『ドント・ウォーリー・・・』について話をもどせば、この映画はある意味P・K・ディック的であるが、それはこの映画がSF映画だということではない。ディックが描いた作品の多くが「自分は本当に自分なのか」といった問い掛けを根底に置いているが、現代ではそれは誰もが当たり前のように抱く不安と化している。薬を用いなくとも精神は不安定であり、そして自分がなにものでいま何をしているのかが判らない奇妙な時代だ。足場のぐらぐら揺れる現代社会のなかで、中身のない「自分の空虚な信念」ファーストで相容れない他者を攻撃し、所有することで安心しようとしている恐ろしい時代をオリヴィア監督は美しい50年代に似た大変センスのよい絵に落とし込んでいる。傑作。