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『THE BATMAN』/たとえ悪でも許すべきなのか(映画感想文)

2012年7月アメリカ・コロラド州の映画館で銃乱射事件が起こる。12人が死亡、58人が負傷した件の発生当時、劇場では新作映画の公開にあわせたプレミア上映会が催されていた。映画は『ダークナイトライジング』。容疑者の24歳の青年は劇場裏の駐車場に停めた車内にいたところを警官に見つかり逮捕。ヘルメット、複数の銃器、催涙ガス等で武装し実際に使用もしたこの男は警察で「自宅アパートに爆弾が仕掛けてある」と供述。実際に化学物質を用いた精巧な仕掛けの爆弾が発見され、警察は遠隔でこれを解除する。犯行動機は不明。記録として残っている犯歴は自動車運転の速度超過が一度。逮捕時にジョーカーを名乗ったともいわれているが、事実は不明である。

『ジョーカー』(19)公開時にテロかそれに類する行為に過度とも思える警戒が行われたのはこの事件があったから。
映画を観て現実との区別がつかなくなり犯罪を犯すやつは以前からいるって? そのとおり。レーガン大統領が撃たれたのもそう。
映画が善悪の線引きを混乱させ助長、事件を誘発しているなどと思いたくもないのだが、手口にヒントを与えより凄惨で巧妙なやり方を紹介してしまうことには懸念を覚える。愛や努力の尊さを謳った作品も多く公開されているのにその影響は目に見える形で出ていないじゃないか、といった映画作家は正しく、映画等から影響を受けるやつは観る以前にその素養がある(あくまでソフトに関しての話)。
ただ『ジョーカー』が公開されたとき、ちょっとこれまでとは違った形で世間に影響を与えるかもしれない、…と思った。分断に拍車をかけることになる、といえば判りやすいだろう。
既得権益の利を享受するものたちと異なる人々へ、「あなたは恵まれていない。このままで本当にいいかい? 変化を求めるのは正当な権利だ。なぜならこのゲームのルール自体に歪のある狡猾な仕掛が施され世界は既に公平ではないのだから」といったメッセージを送っているように感じたのだ。
映画はかつて弱者やマイノリティの「仲間」であり「理解者」だった。それは強者やマジョリティが権威として力を持ちのさばっていたからだが、時代が変わり、いまは反骨の革命主義者たちもまた権威である「悪」と変わらない。
世界にはすでに、「勝っている悪(といえばいいすぎか。ズルいやつ)」
と、持たないものの卑屈さでSNSで不満をただいうだけ、献身や勤勉とは程遠い「負けた悪」しかいない。
映画『ジョーカー』が誘発したのは憎しみの発露であり妬みの暴発だ。
生産性はない。明るい未来へ繋がる道筋は見えてこない。他人を慮りいとおしむ余裕などもうとうの昔に心からは失われている。そんな世界において映画が何かを主張することなんかできるのだろうか。
「悪」に対して「正義」があるからこそ物語は結末へむかって進むことができる。「悪」を打ち倒すか戒め改心させるかは作家が選べばいいのだが、その「正義」も暴力を使えば「悪」とやっていることは変わらない。時代の変化か人間の進化なのか、パラダイムシフトは混迷を極めヒーローも劇中において活躍しにくい時代になったのだ。
『ジョーカー』は「悪」を徹底してリアルに描き、それは腐った社会の要請で生まれた歪だ、と宣言した。そして象徴として祭り上げられた悪のヒーローは無名の人々にあっという間に消費され尽くしてしまう。
そんななかで、では真逆の位置に屹立する「バットマン」(という存在、あるいは象徴)ははたして成立するのか。その存在意義は?

『THE BATMAN』(22)には制作陣の思考錯誤の軌跡がまざまざと残されている。
これまで完全無欠の力(正義の履行力とでもいいますか)を財力、科学力も含めて持っていたブルース・ウェインはここでは不完全な若造として登場し、正義を実行するそのときでさえ迷いがある。バットスーツを着ればすべてオッケーではない。不注意で吹き飛ばされたり、何度も気を失ったりする。これまでのシリーズ作品であればブルースが悩もうが酔っぱらって前後不覚になろうが、いざバットマンになるともう指すベクトルにブレはなかった。しかし今作では迷いに迷う。なぜならブルースはファザコンの引きこもりだから。もうひとつ、なぜなら人は誰であっても嘘をつくから。悪人でなくてもお金は欲しいし保身の意識がなくとも社会生活を潤滑にしようとちょっとしたウソをつく。しかしブルースにはそれが耐えられない。なぜなら彼は父親を清廉潔白でパーフェクトな人間だったと信じ、そのとおりに人は生きるべしと思っているから。
『ダークナイト』(08)が素晴らしかったのは「悪」の象徴であるジョーカーの哲学や正体や過去や論理が常にブレ、正体を特定させなかったことに因る。そのために「こんなやつはいない」から「もしかしたらそれはいるかもしれない」への飛躍を遂げることができた。具体的な過去の事象から発生したトラウマがもしジョーカーの動機であれば「そうでないわれわれ」は彼岸の絵空事として、やや離れた位置から滑稽に感じつつ眺めたことだろう。しかしヒースの演じたジョーカーはそうではなかった(『ジョーカー』のアーサーはさらにそれを推し進め普遍化の獲得にも成功しているのだが)。
『THE BATMAN』において悪が跋扈する物語は極めてシンプルで、ありきたりだ。かつて街の浄化に一役買ったものたちがいるがそいつらも裏で悪いことをしていた。それを告発したいと思ったもう一段階上の盤面に立つ悪い奴が出てきてバットマンに挑戦する。ただそれだけなのだが、悪いやつもそうでないやつもみんな裏がある。ないのは誰なのか? そう思いながら観られるのはこれが新たなシリーズの一作目だからでもあるが、もうひとつ、主人公が不完全で未熟だからだ。
今後の成長が約束された『バットマン ビギンズ』(05)の未熟さではない。

ゴッサムシティの扱いも既作品とはずいぶん印象が違う。
これまでは悪に牛耳られた街を亡き父の遺志を継ぎ浄化し完全な街にする、という裏テーマがブルースには常にあったが今作ははたしてどうか。父の遺志を継ぐ、といいながらも「え、結構繁栄しているやん」と観ている側からつっこみたくもなるような賑わいをゴッサムは見せる。どういうことなのか? ブルースにとってこの街は汚職に塗れた為政者たちが支配し貧富格差も大きい不完全な街なのだ。・・・ここに監督のテーマがあると僕は勝手に思っているのだが、これって現実のわれわれの生きている社会やんか。政治家は裏金の献金で地位と名誉を手にし、悪党の運営するあやしい店に出入りしている。不都合なやつは汚い連中に任せて消してしまう。現場の人間は苦労ばかりを押し付けられ偉い奴らだけが楽しんでいる、・・・って現実の世界やん。それをブルースは、父の目指した街ではない、不完全で悪に塗れた世界だという。確かに、誰かに(地下鉄で白人たちに襲われたのはアジア人だった)暴力を奮い撮影してネットで拡散するなんて狂気の沙汰だが、それはいま現実の正解では日常茶飯事に行われている。

監督のマット・リーヴスといえば『猿の惑星』(「新世紀」(14)、「聖戦記」(17))だが、それらの作品中で繰り返し語られたのは「エイプはエイプを殺さない」だった。もし殺してしまえばエイプではない別のものになる。その別ものが互いに憎しみあい殺し合う動物である人間を指していることに疑いはなく、われわれは「殺したいほど憎い相手や疑いようのない悪」にシーザーがどう「エイプ」としての価値や資格を担保しながら対峙するのか、さらに言及すれば「悪にどう対処するのか」に注目しながら観てきた。凡庸な赦しではない。それが通用しないものに対してわれわれはどう向き合えばいいのか。あるいは完全に異なる価値観により暴力を選んだものに対しどういった行動をわれわれは選べるのか
「バットマン」の新たなシリーズの一作目となる『THE BATMAN』でもこのテーマをさらに推し進める監督の覚悟が鮮明に見える。次はどうする? 観続けていくなかで、何かしら希望(かあるいはそのヒント)が提示されるのをわれわれは、ただ静かに待ちながら。

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