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『ドライブ・マイ・カー』/「なぜ?」と問い続けるしかなく、答えもない(映画感想文)

『ドライブ・マイ・カー』(21)を観た。
演出家・家福の妻は女優だったがある事情があり引退、のちに脚本家として第二の人生を歩み始めた。二人の夫婦関係は大変よく、仕事でも支え合う良好な仲だ。しかしある日その妻が自分の出張中に男を自宅に入れ抱かれている場面を家福は目撃する。
この些かショッキングな場面は映画のかなりはじめで提示されるのだが、このとき家福は何もいわずドアを閉めそっと自宅を出る。そしてそのあとも咎め立てはしない。
観客はここからしばらく家福が「妻に対してどう思っているのだろう?」と思いながら映画と向き合うことになる。仲もよく不満もなさそうで貞淑にさえ見える妻は、なぜ他の男に抱かれるのだろう? という謎も残る。さらに妻が家福に若い男性俳優を親し気に紹介する場面もこの前後であり、最初はきっとこの若い俳優が妻の男だったのだな、と思うのだが途中で「もしかして違う男だったのでは」という疑問も湧いてくる。
二つめの疑問である「なぜ妻は別の男と」にはまた別の事情があることがのちにある人物の口から語られ、そして家福が咎め立てしなかったことに対する一応の解答をわれわれは得るが、さらにそこで別の謎に突き当たる。

この映画、常に現れる人物に対して「なぜ?」がつきまとい、観客は観ながら「なぜ?あなたは」と考え続ける。なぜいわないのか。なぜ、そんなことをするのか。なぜ、そちらの道を選ぶのか。少しも集中力が途切れることがない。
この印象は韓国映画を観ているときの感触に近い。邦画は(と一括りにするのが危険なのは承知。世間でイメージされる日本のスタジオが製作する大規模の映画は)だいたい始まったところで結末が想定され、そのイメージが裏切られることも少ない。どうなるか判らない、といった体験は大変にスリリングなのだがそれは少ない。
この映画は何がどうなるかも判らないし、誰もが何を考えているのか判らない

主人公が演出家なので芝居からの引用がしばしば挿入される。それが象徴的過ぎて是非が分かれるかとも思うが、その挿入が物語を上手く整理し要約することに成功している。しかも、それは劇中では死んでしまった人の声で(無理のない形で)挿入されるので「そうか。声というのは死んでも残るものなのだな」と本筋とはまた別の印象も抱く。そしてその事実を知らない人にとっては、残された声だけでは「死」という大きな出来事もあったのか・なかったのかが判らない、ということにも気付かされる。死者の声は常に一方的であり、しかし受け止める側は時々の心情によって受け止め方が変わる。

はたして、この映画は何をいわんとしているのか?
先に書いたように「人間というのはよく判らないものだ」ということをいっているのだと僕は思っている。不倫を叩く風潮がいまだに世間では続いていて「なぜあんな素敵な妻がいるのに別の女と」という指摘がなされるが、多分そんなこと当の本人だって判っちゃいまい。妻に不満があるのか? と訊ねてもきっと答えは「ない。妻のことは愛している」だろう。しかしそれでも他の人のことを好きになって抱いてしまうのだ。なぜ? と咎め立てしても答えは出ないし(ある期間は)反省もしない。なぜなら、繰り返しになるが、よく判っていないから。怨恨とか私欲とかいった第三者にも理由が明確な殺人のような行為とは次元が違う。そして、この不貞の罪は実際に踏み込んだ人にしか判らない。不倫をしながら、なぜ自分はこんなことをしてしまうのか、と考えたことのある人にしか理解はできない。「闇」などという簡単な言葉で記号化するのではなく、そのことを真正面から突き付けてくる稀有な映画でもある。
その「よく判らない」ことをする人間を「それでも受け入れ赦したい」という結論はやや甘い、と僕は思った。それは不貞を行っている(いた)人間のあまえのようなものだが、「不倫していても人ってそういうものなのだから許してほしい」というのは都合のいい詭弁だ。監督、そこはおもねり過ぎだぞ、・・・と思っていると映画の後半でそれもひっくり返る。浅はかなのだが、人間として自由に無制約に生きているようなある人物が劇中に登場する。「人というのはよく判らない」けれども社会的な皮膚の下にある本質の部分を優先的な価値基準として置いているようなその人物は、自分の内なる生の声の赴くままに行動しそして破綻を来す。「よく判らないもの」であるが常にそれが受け入れられるとは限らない、というケースも挿話のひとつとして用意されている。
まあ、清濁飲み込んで生きるしかない、というところに落ち着くのだ。

そういう点でこの映画は宮崎駿監督の『風立ちぬ』(12)とテーマ的に共通するものがある。主人公の声を充てた庵野秀明の声も、そういえば下手な演劇調の棒読みだったが、ある雰囲気を醸し出していた。人間なんて所詮は盤面の駒にしか過ぎない、という不穏な感じが。
人の生活感が出るように食事シーンを入れる、というのが宮崎監督の常套手段のひとつなら、性生活の場面をあえて強調するのが濱口監督なりのリアリティの醸し出し方なのか、と最初は思いもしたが、テーマ自体がそれだったのね、と鑑賞後のいまは思っている。人には、自分以外の心は判らない、と文学的文章読解のメソッドとして生徒に教えているのだが、いやいや自分の心も本当は判っていないのですよ、と嘯くおそろしく不穏でしかし謎の魅力のある映画。

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