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『ザ・キラー』/語りかける相手は自分だけ(映画感想文)

デヴィッド・フィンチャー監督の『ザ・キラー』を観た。制作はNetflix。11月10日からの配信開始に先駆け限定で劇場公開。
脚本はアンドリュー・ケヴィン・ウォーカー(!)
主人公の殺し屋を演じるのはマイケル・ファスベンダー。

冒頭から相変わらずのフィンチャー印。不穏と洗練が共存した幕開け。
物語は、主人公の殺し屋がある問題に巻き込まれ、彼なりの哲学でそれに対処していく様が描かれるだけなのだが、おもしろい。なにより、このプロットだけ聴けば、それば平凡な映画作家なら、こうなってこうなって解決やろと予想がつきそしてその通りになる(予定調和的なアクション場面が入り、絵に描いたようなスタイルのおきまりの悪役が現れ、となる)ところだが、そうはならない。想定通りの筋をなぞっても、ズレているというか一歩先を行っているとでもいうか。
既視感のある場面設定でも「何が起こるか判らない」。
フィンチャーの絵作りの効果だと思う。よくあるちょっとした何も起こらない場面であっても、われわれが気付かない不吉な予兆や見過ごしかねないカッコいい瞬間が、作為的に作りだされ平然と風景のなかに織り込まれている。砂埃だとか、スーパーマーケットで買った睡眠導入剤のボトルだとか。絵作りがその点においてアンディ・ウォーホルとも似ている。ホッパーの絵に通底するものもある。日常の風景を切り取っただけに見えても、寂寞とした感じや剣呑な雰囲気、ただならぬ感情が映像のなかに隠し込まれていて観るものを刺激する

ウォーホルやホッパーの名を出したが、それでもフィンチャーはやはり新しいと思う。スゴ味はその新しさに気付かせないところにある。OPや音楽に対するセンスは新しくとも、映画全体として過剰に鼻につくことがないのは、彼が新しさや洗練(どうしてもフィンチャーを語るときにはこの言葉を多用せざるを得ないのだが、)を自在にコントロールできているからだろう。
その技を思う存分且つさりげなく盛り込むためには、物語の展開自体はシンプルな方がいいのかもしれない。

最高傑作だと僕が信じて揺らがない『ゾディアック』(07)は、用意された筋書き(の前半)は事実であり、後半はロバート・グレイスミスの取材に基づく推理に基づく模擬現実といった作りでシンプルだった。物語の構成や起伏のために監督が何かしらの大きなアイディアを出したとは思えない。その分、劇中のグレイスミスやデイブ、エイブリーたちの演出に集中できたのでは? 60年代後半のアメリカの風景の再現と絵作りに集中できたのではないか。
反面、『ゴーン・ガール』(14)では、こちらも原作付きだとはいえ、物語はあちらこちらへ展開し、裏返り、設定や場面の説得に腐心している。もちろん余すことなく監督の魅力は発揮されているが、物語に引きずられ過ぎてフィンチャーの持ち味が伝わりにくい。ファンとしては監督の魅力がロザムンド・パイクの濃いキャラクターにより薄まってしまった印象だ(個人の感想以外のなにものでもないですよ)。

『ザ・キラー』は終始、ひとりの男を追い続け物語は進む。
ファスベンダー演じる殺し屋には仕事を完遂するための「哲学」がある。殺しの仕事は計画を立て、シュートのタイミングを決め、そのタイミングからの逆算、ないしはベストのシチュエーションを決めそのときが訪れるのをひたすら待つ。「待ち」の仕事だ。(彼の場合は他にも放射能物質やガス栓の開栓、階段へのワイヤー張りといた蓋然性の殺人もあるので常に待ちではない、…といったことはOPで提示される。『セブン』(95)の再現だ。)引鉄を弾くのは一瞬なので、その待ちの「緩」の間、彼はずっとその哲学をつぶやき続ける。
「計画通りにやれ。即興はよせ」「誰も信じるな」「感情移入するな」あたりでは、そうだな、殺し屋の哲学としてはそのとおり、と思うのだが、ふと「決して優位に立たせるな」「対価に見合う戦いだけに挑め」ときて、これは殺人者としてだけでなく現代ビジネスでも同様のことが、…いや、多くの現代人が心掛けるどころか目指している成功者の人間像のそれではないか、と気付かされる。
殺しはビジネスであり、ある人々にとっては生き様であり、そして振り返れば何度か劇中でそれは「金銭と交換する作業のひとつ」として複数の人間が劇中で語る。
現代では人殺しもビジネスのひとつ? いや、現代社会がどこかで「風が吹けば桶屋が」式に人の死のうえで成り立っていることをほのめかしているのかも。
しかし、ではその哲学を自己に課し、自分の能力を行使することで自分の果たす責任に自分ひとりで対処しようするひとりの殺し屋は、現代社会の必然的な悪が結晶化した人物なのだろうか。それとも逆に、口にしているその理想を実践できるならやってみろ、というフィンチャーからの挑発なのだろうか。

ファスベンダー演じる殺し屋に憧れを覚える人はいるに違いない。
自分で判断できる立場は魅力的だ。だが、そうなるには能力がなければならない。それは自分を律する能力でもある。昨今やりたいことを声高にいい、他人に文句を(特にSNSで。匿名性を嵩にきて)いい、失敗しても責任を負わないものたちが多い。ファスベンダーが内面では多弁であるのに反し、他者に対しては徹底して無口であるのは象徴的だ。「沈黙が人を守る」というのはカラックスの映画に登場する科白だが、彼はそれを徹底している。

この映画。演出にも絵作りにも音楽にも、素晴らしい集中力で取り組んでいると思われるのだが、反面大変リラックスして作られている気もする。万人受けするフィンチャー作品になっているのだが、先に書いたような(ことと矛盾するような、…)フィンチャー味が薄まった感じは少しもなく、エッセンスが凝縮されながらも滑らかさや判りやすさや物語のスムーズな展開を手に入れ、さらに進化した感がある、…といい過ぎたら褒め過ぎ? いや、いっときこのままどこか手の届かないマニアックなところにいってしまうのじゃないかと心配していたのだ。ノーランがときどき『インセプション』(10)や『テネット』(20)を作ってしまうように。(『ゾディアック』だってけっして万人受けするとは思ってないけど)。

主演のファスベンダーが美して理知的なせいかも。
『プロメテウス』(12)では役柄もあって人間とはズレた美しさを前面に押し出していたファスベンダーが、『ザ・キラー』では可愛げもユーモアも備えつつ怜悧且つ冷酷といった役柄を大変ニュートラルに演じている。劇中、度々彼がジェレミー・アイアンズに見えた人も少なくないのでは。若い頃の、上品さと異質な感じを醸し出すアイアンズが殺し屋を演じれば、きっとこうなっていたはず。

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