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『ナポレオン』/目的なき、空虚な人物(映画感想文)

ナポレオン・ボナパルトは、18世紀後半から19世紀にかけて活躍したフランスの軍人にして革命家。皇帝となりフランス第一帝政を築くもイギリスとの争いに敗れ、またロシア遠征でも失敗し失脚。凋落し、不遇の晩年を送る。
彼の功績について安易に是非を定めることはできないが、この時代のフランスには彼のような人物が必要だったのだろう。世界の行先や均衡(や倫理的な善悪)といったものに興味もなく、考えたこともなく、しかし世界を一撃で覆す手を打つ才能を持った人物が。興味深く、そして大変危険。

映画はフランス革命の場面から始まる。
史実として「コルシカ民族主義者であった当時のナポレオンは革命に無関心」といわれるとおり、ホアキン・フェニックス演じるナポレオンは、マリー・アントワネットがギロチンにかけられるその場面においてもまったく無関心。何の騒ぎか知らないが迷惑だ、とでもいうようにただ眉をひそめて通り過ぎる。
思想といったものはまったく窺えない
(パンフレットのストーリー紹介ページには「彼女の最期をじっと見ていた」とあるがウソである)
そのあと、イギリスに助力を得た王党派によって占領されたトゥーロンの街を取り返す戦いが描かれる。
ここでのナポレオンは活き活きしている。戦略を立て、実行する部隊を任され、そしてこのときは自分の生命を懸けて最前列に躍り出る。乗っていた軍馬が砲弾を受ければ、その死に哀惜の表情を浮かべ敬意さえ払うかのような素振りも見せる。
そしてこの戦いの功績を認められた彼に近づいてくるのが、ポール・バラス。
バラスは、フランス革命期の政治家にして軍人。没落した名門貴族の出で経済的な理由から父に勧められ軍に入った人物。策士なのかもしれないが、公金の横領や淫らな女性問題や権威を嵩にきた横暴など、あまりいい人間だとは思えない。そのあたりのことが劇中でさほど強調して描かれないのは、「バラスに騙され担ぎあげられたボナパルド」という構造にしないためだろうか。
実際トゥーロンを奪回したあとでバラスは、捕虜とした何百万人の住民を処刑し、財産を没収している。そして、映画『ナポレオン』のなかでファム・フェタールとして描かれる真の主役、ナポレオンを惑わす美貌の妻ジョゼフィーヌは、このバラスの愛人だったのだ。しかしその点についても映画はさほど触れない。さりげなく「そうかも」と思わせる程度の描写はあるが経緯を知らなければ看過してしまう。
監督のねらいは、どこにあるのか?

実際の出来事をフィクションの創作物に置き換える場合、作者がどの挿話を強調し、どういった是非を下し、カットするかは興味深い
映画のなかのナポレオンは、前述したように何らかの信条や倫理といったものに基づき判断を下しているようにはまったく見えない。ただ誰かに乞われて仲間になり、敵を攻める戦略を立て、そして勝利する。気味が悪い。多くの(実際に)たてられた手柄、功績が空虚なものに思えてくる。目的がない。こうすればフランスがよくなるとか、多くの人が救われるといった心の行方のようなものがないのに、打ち負かされた多くの敵は死に、部下たちも死んでいく
ジョゼフィーヌと出会ってようやくナポレオンにも人間らしいモチベーションのようなものが生じるのだが、それは英雄にまったく相応しくない。女々しく、彼が実は自分にまったく自信のない人間であることだけが浮き彫りになる。

ここでわれわれは、人の才能の不運に頭を巡らすことになる。
バラスのような卑しい人物にこの戦略的才能がなくてよかったのは間違いないが、こうまでも主体的な考えのない空っぽの人物に戦う能力だけがあるというのも、またどうなのか。
たとえば、思慮が浅く善悪の真理について検討などしない人物が、ただ権力や指揮権だけを持てばどうなるのか
何かの正当な理由がありそれを達成するための方法として戦うことを選ぶのなら(許せないにしても)思考のプロセスは理解できる。だが、戦うことがすでに手段ではなく目的になっているとすれば

リドリー・スコットという監督の作品に、これまで一度としてメッセージ性など感じたことはない。
しかし、『ナポレオン』は違う。
戦うことが目的となり、そしてそのそばには常に誰か、彼の軍人としての才能を利用しようとするものがいて、そしてときどきはその糸を引く者をも運命的な閃きや民衆の支持で乗り越えてしまう人物。肥大した権力を持ち暴走するそういった人物がいかに危険なのかということを、鑑賞しながら感じる。ジョゼフィーヌが指摘したように、ナポレオンは教養のない粗野なだけの男だ。しかし圧倒的な力を彼は手に入れてしまう。

この当時の時代背景もなかなかおもしろい。情勢が不安定で、彼の活躍する機会が多くある。国と国とはときには裏切り、別の国を脅かすために陰惨で姑息な努力を惜しまない。
邁進しているように見えてナポレオンは、そんな多くの有象無象の作為が渦巻く汚れた水面で翻弄されたように漂う木の葉だ。

彼の人生を俯瞰で観ると、それは戦いの歴史だ。
節目節目で大きな戦いを経験し、彼は大きな推進力を得て、人生を上へ上へとむかい突き進む。しかし振り返って数えて見れば、それは死者の記録でもある。桁違いに膨れ上がっていった死んだ部下の数から思うことは、戦いというものが(暴力的な力の行使ということが)エスカレートするものだということ、一度始まってしまえば和平的な終わりなど訪れようがないことを教えてくれる。
かつてキューブリックが撮ろうとして果たすことのできなかった、大変興味深い謎の人物のどこにリドリー・スコットが惹かれたのか。その関心から劇場に足を運んだのだが、もしかすれば、いまの時代において、悪しき象徴として、彼は選ばれたのかもしれないと思った次第。
映画としては大変おもしろかったっす。

リドリー・スコット、老いてから円熟したストーリーティリングの技。大作の趣をもった「大作」をちゃんと撮れる、いまとなっては貴重な監督。(『ブレードランナー』(82)の頃とか繋ぎが下手クソだなと思ってたのよ、…。映画の好き嫌いとは別に)


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