見出し画像

『怪物』/もう誰にも、教えることがない(映画感想文)

最近息子が反抗期ではないかと母親は心配している。これまで見えていたものが見えない。やがて子どもの通う学校で事件が起こり、もしかして息子が、…と不安になる。息子の部屋から出てきたのは、よからぬ想像を補い、証明するものばかりだ。学校へ掛け合うが実態はつかめず、やがて息子とその周辺で大人たちの予期しなかった事態が起こっていたことが判るが、すでに手遅れだった、…。

というのは、公開中の是枝裕和監督の作品『怪物』(23)のプロットではない。
80年代に現れ、10年に満たない活動期間に素晴らしい作品を多く残した日本ミステリ界の至宝・岡嶋二人が85年に刊行した『チョコレートゲーム』の筋書きだ。
主人公は作家の近内。息子は名門私立中学に通っている。息子を思いながらも疑わなければならない立場に追い込まれ、そして親という立場では知ることのなかった息子の本当の内面をすべてが終わったあとで知る、…。
『怪物』を見ながら何度かこの小説のことを思い出していた。
『怪物』の脚本は坂本裕二のオリジナル。
誤解してほしくないのだが、40年近く前の岡嶋の作品をここで引き合いに出して、坂本のオリジナシティにケチをつけるつもりは僕は毛頭ない。少年の無垢性と、それが大人それも親にとっては謎であり、それが錯覚を引き起こし事態を見誤らせるという物語は、現実においても架空の創作においてもすでに何度も語られてきていることなのだから。手垢に塗れているのではなく普遍性があるのだと思う。
錯覚を引き起こす理由の最初のひとつは、「親」が「子ども」を理解しなければならない、という根拠のない義務感を持っていることだろうか。あるいは、理解できるという担保のない自信のようなものかも。
しかし残念ながら常に親が子どもより利口であるとは限らず、また無垢性が潔白と同義でもない。時代の変化の速度が異常なことも、この親と子のアンバランス、理解に隙間を作りだすことに大きく影響を与えている。子どもは時代により無自覚的にアップデートされているのに大人は植え付けられた旧弊な価値観を新しく変更することがままならない。時代の速度がゆるやかで、圧倒的に多くの人や多岐にわたる世代に支持される価値観があった時代はよかったが、多様性の支持も含めてあまりにも人は個を求め認め過ぎたがゆえに、自身の子どもでさえ、一個の別存在として認め、内面の可視化を断念せざるを得なくなっているのが現状だ。しかし、先に述べたように、「親」は子どもが見えなくなるという事態を容易に受け入れることができずに悲劇や軋轢を生んでいる。そして同時に、子どもは社会に出るにはまだベーシックなプログラム途上の身であり、人の社会は先達によってさまざまなノウハウを教え込まれないと生き抜くにはなかなか面倒なステージなのだが、それを教える大人がすでに社会に遅れているので人生の教師不在のまま、自意識だけを膨らませざるを得ないというのが現代だ。

映画『怪物』が暴き出しているのは何なのか。
いま書いたような、大人と子どもの理解の断絶がそのひとつだろう。
時代の変化に「ついていけない大人」への無効通告もだが、それよりもここであぶり出されるのは、いまの社会が隠蔽や事なかれを当然のこととして行い、そのはざまで生み出されたロジックや何もかもを曖昧にポスト化してしまう空虚な「空気感」を読めないものを排除する真実なき状態ではないか。
たびたび映し出されるテレビのなかのバラエティ番組や、小学校でイジめを行う子どもたちがイジめた相手に対して「そこ、笑うところだろ」といいながらイジメの根幹にある本質的な悪意をぼやかすくだりは大変象徴的だ。
そして、物語の中心に据えられた小学生の麦野湊が、仕込まれたテレビのなかのその場面を、日常の教室内で繰り返される蛮行を、見ながらふとみせる、なんともやるせない表情、…。それは真実を看破する目ではもちろん、ない(真実をこれだと提示するのは、大人である脚本家の坂本であり、監督の是枝なのだからして)。ただ彼の表情に浮かぶのは、もどかしさ、だ。
これではない。いま、この場にあるものは間違っている。こうじゃない、という表情。
繰り返しになるが、しかし彼の心が希求する、いわば人間らしい真実を誰も提示はしてくれない。残念なことに、ここでは母親さえもそれを提示はできない。
学校という場が塾などと違うのは、知育ではなく教育を目的としているからだ。そこは社会に出た際に生きる術を身につけさせる場だ、という至極当たり前の言説もまた、無効になって久しい。教師は報告、報告のハードワークで、その目的は失敗が起こっていないか監視する上位の役職者への報告だが、そのために本来の職務がおろそかにされ、失敗が起こる。過剰な報告に対するストレスが、上位者への不満、生徒への手抜きを招き、より深く重篤な問題を引き起こしているというのはまったく笑うことのできない本末転倒の莫迦化た事案だが、それが現実となって久しくも誰も止める手立てをもたない。
学校という場は管理する場に堕し、そこで生徒に何か大切な生きるための思考や法則を身につけさせることなど、誰にもできなくなっているのだ。
端的にいえば、誰ももう問題の解決方法など知らないし、また問題を解決することの意味や重要性も見失っている。問題は、ただ隠して先送りにするだけのものになっているのだ。ここまでわれわれは、事の重大さが認識もできず、何かの解決を図る能力も失ってしまったのか。
そして子どもはそこでただ途方に暮れているのだ。
『怪物』は、そうして状況のなかで生み出される、可哀想な空っぽの子どもたちのことだ。それを生み出す、本質を見失った空っぽの大人たちのことだ。

この映画について書くなら、76回カンヌ国際映画祭でクィア・パルム賞を受賞したことにも触れねばなるまい。
この賞はLGBTやクィアを扱った映画に対して贈られる賞で、この賞を受賞するということは、作品がきわめて深い理解を持ち差別に対し対抗しうる正しい問題意識を持っている、と評価されたという意味である。
「世間の期待に適合できない少年が織りなす物語の構成は美しく、(既存の価値観が横行する)世界に拒まれているすべての人々に力強い慰めとを与えることになるでしょう。登場人物に深い思いやり、繊細な詩情を与えた監督に感謝し、授与します」
ということだそうだ(※(  )部分は僕が補足しました)。
ところが、これに対する監督のコメントが批判を呼んでいる。
「LGBTに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話と捉え、誰の心にも芽生える」問題を描いのだという、英国メディアへの返答がそれである。
もともと『怪物』は宣伝戦略からして筋書きを明かさない、内容は不透明なまま臨んでほしい、という選択がなされているのは明白で、それは人の行動の一面を見て好悪や善悪を印象的に判断してしまうが、(先に述べたような隠蔽や空気を読んだ挙句の集団の歪んだ判断によって)真実が捻じ曲げられてしまう様子を、子細に描いた作品である。よって、筋書きの予測も断片からの推論も不要であり、このカンヌでの受賞が逆に「そうか、LGBT的要素が重要な位置にあるのだな」といった蛇足の判断を生み出すことになってしまったと思っているし、監督や脚本家もそうだろう。興行を担うプロデューサーだけはたとえ違ったとしても。
そこで、この発言である。今作の受賞で喜んだのははたして誰だろう。そして、監督のコメントで失望を感じたのは?
個人の感想から述べれば、この映画のなかで少年たちのなかに同性愛的傾向を見出すのは難しい。たとえ、くだんの二人が中性的容姿を与えられ、その言葉のはしばしにニュートラルで性を超越したような物言いが仕掛けらていたとしても、世間から逃れるように親しさを増していく二人を、同性同士の愛だと多くの人は軽率に思うべきではない。なぜなら、われわれは人の愛が、自己愛から同性愛、異性愛へと変遷していくことを知っているからだ。そしてこの時期の彼らが同性同士惹かれたとしても、それは昨今の問題としての性的認識ではなく、あくまで、この時期の人の内面が当然のこととして持つ傾向として、まず認識するのではないか。ゆえに、唐突に同性からのアプローチを受けた(かのように思い)湊が一時的に誰かを拒むことがあっても、それは成長の認識、…というよりは、溺れるものに唐突に抱きつかれ救いを求められたことに慌てふためき突き飛ばしてしまうことと同意でしかない。
なによりも、これを同性愛的思考のある二人が無理解な世間から逃れて理想郷を求める話としてしまっては、もっと大きな核となる問題がまったく散漫になってしまうのでは?
授与に対する監督のコメントに、世間の(きっとLGBT問題に敏感な人が多いと思われるが)人たちが落胆したというニュースは、反対に彼らが常にそのことで被害者意識を持ち、自分たちの性癖以外の大きな問題については考えていない、ということの証左になる気がして、それは損だし危険だと思うのだが、どうだろう?

問題のカギとなった若い教師が、たとえば同性愛的に見えた二人を揶揄する場面でもあれば、監督のコメントに対する失望もまだ判る。しかし、作品のなかでそういった場面はない。しいていえば、イジメっ子たちが囃す場面があるにはあるが、それで揶揄された側は、自身の性癖について気付かされるとか傷つくとかいった表現や芝居があっただろうか。
ないのだ。
もともとの脚本がより長尺で三時間程度のものであった、という噂もあって、そこに級友の女子のカミングアウトや二人のそれらしい場面があったのではないか、という推察もネットで見られるが、それはないと思っている。それでは問題が、個人の性の問題に還元され、もっと大きく重篤で誰もに関わるテーマが弱まるだろう。もちろん誤解してほしくないのは、僕は多様性やLGBTの問題を小さい個々の問題で片付けろ、などと横暴に思っているわけではない。ただ、何もかもをほじくり出すように自身の問題に結びつけ、他者の好意的な「そうではない」であせ、問題意識が希薄だ、と糾弾する姿勢はかえって批判を浴び、理解を損なうだけだと思うのだ。

しかし、中心に据えられた少年たちはなぜ、マージナルな容姿を与えられているのだろう。
この点が、誤解を生むことに寄与した可能性は捨てきれない。悪く考えれば、誰かが「そういった要素も入れれば今風の問題を扱っているという評価になる」と下卑た打算をはたらかせた可能性もある。うがちすぎかもしれないが、「少年=天使=中性」といった発想を誰かが持ち込んだのかもしれない。単純に、絵作りの問題として彼らの容姿がしっくりきた、という映画的事情に因るかもしれない。
ただ、ひとつだけ、同性愛的要素が入ったのだとすればしっくりくることはくるのだ。それはなぜ、あれだけ冒頭で仲のよかった母と子が、起こった事象をはやい時点で共有しなかったのか、…というやるせない疑問についてである。もっとはやくに彼が、教室で起こっていることを母に相談していれば、こんなことにはならなかった。
その解答として、父のことを遠因とし彼が母を大人のひとりとして信用しきれなかった、という可能性も検証しておくが、多分そうではない。なぜなら彼は、若い担任教師のことを本当はよく思っている節があるからだ。
では、なぜ少年は母親に打ち明けなかったのか。
それは、自分が同性を愛しているのではないか、そしてそれは口にしてはいけないことなのではないか、と考えたからではないだろうか。とすれば、結局はこの映画の問題を大きくしてしまった原因には、中心に据えられた少年の「同性愛に対する禁忌意識」があることになり、結局そのうえで物語が成立しているのであれば、この映画もまた、通常のヘテロ愛以外のものが危険な状況を生み出すことがある、といういわば悪役側として一助を担っていることにもなると思うのだが。

この記事が参加している募集

#映画感想文

67,103件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?