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『ミッシング』/人の心はまだ不完全なのかも(映画感想文)

石原さとみ主演・吉田恵輔監督の『ミッシング』(24)を観た。
娘の美羽がある日突然失踪して3ヶ月。沙織里と夫の豊はチラシを撒きに街に立ち、情報を求め奔走するが行方は杳として知れない。警察は沙織里の思うように捜査はしてくれず、メディアも世間も関心を失っていく。頼りになるのは地元ローカルのテレビ局員の砂田だけ。砂田は心優しい実直な男で、できるかぎり娘を奪われた家族に寄り添おうとするが、局の上層部の方針に従わなければならない立場でもある。番組作りの方向性も、ときには耳目を集めるために過激で、家族の想いを踏みにじりかねない方へとむかう。
失踪直前まで美羽といっしょにいたのは沙織里の弟圭吾だが、その圭吾の証言に偽りがあった可能性を指摘するものがテレビ局内に現れ、…。

なんとも重い映画。
しかし観ておかなければ、という使命感に駆られて鑑賞。
多分気付かれていると思うがこの作品に納得のいく(胸を撫でおろす)決着は用意されていない。われわれはただひたすら他人の悪意に身を晒す母親を見続けることになる。その悪意と娘を失うという最悪の(としかいいようがない)状況で壊れて行く母親の姿を
この題材でこういった展開なら、観客は石原さとみ演じる母親・沙織里に感情移入し、彼女に対して同情的になり、彼女の思考や行動に賛同することになると思われるが『ミッシング』のすさまじい点は、そうならないところだ。観ていて初っ端からこの母親のことがうざくなる。
どうしてそこまで自己中心的に考えるのか。なぜ周囲と落ち着いて会話をできないのか。なぜ人の意見がきちんと聞けないのか、…。そしてはたと気付かされるのは、本当に子どもを失った親というのはこれほどまでに狂ってしまうに違いない、という事実だ。
映画はそのことを冷徹に突き付けてくる。キレイごとの同情論が入り込む隙間がない。正論ぶった意見など通用しない。
それだけ家族に降りかかった娘の失踪という事件はただごとではない。
そして、そのただごとではない重大な出来事が現実の世間においては度々起こっていることに思い至り慄然とする。
この映画の手触りの生々しさと狂気に追い込まれていく様を描くキャスト、スタッフの覚悟は並ではない。何なのか。

沙織里はネットでエゴサーチを繰り返す。口では「見ても仕方がないって判っている」といいながら、夫の豊に見るのをやめるようにといわれても、やめられない。意味なく傷つけられることが判っていてもやめられない。書き込まれているのは根拠のない誹謗中傷だ。他人は「見なければいいだけ」というのだが沙織里のなかではきっとそれは怖くて「見ないではいられない」ものなのだ。見ずにいれば自分の想像力が凶悪な妄想になり自分をより苦しめる。こんな酷いことが書かれているのではないか、と思考の罠にはまる恐ろしさは、娘がどんな状況なのかを妄想することの恐ろしさの暗喩かもしれない。けっして死体でも見つかれば、などと莫迦なことはは思わないが。…生きてもどってくる以外に子どもを見失った親が願うことはない筈なのだが、生きているか死んでいるか判らないまま消え去ってしまうこともまた何ともいえぬ恐ろさがあるものなのだ。娘がいまどうなっているのか。どんな目に遭わされているのかの怖さは、想像できない。
だが人は平気で他人の知らないところから想像を刺激し、証拠の残らない形で関わりのない人を傷つけようと図る。

映画を観ていると、われわれは何と不完全な生き物なのかと思う。誤解と批判を承知で書けば「何と不完全な心の持ち主が人びとのなかに混じり、同じような顔をして生きていることか」と思うのだ。
他人を傷つけてはいけない、思いやりを持たなければならない、と子どもの頃から躾けられて育ちながら、そうならない人がいる。社会の余裕のなさだろうか。他人のことなど思いやっている余裕がない? 誰かを思いやって何か少しでも得が? 無論そのくだらない問いに対して「では他人の気持ちを傷つけて何の得が?」と問い返してやりたいが、その相手はきっと平然とした顔で「すっとする」と答えるだろう。狂ったように働かされた企業のなかで何人もそういう人間は見た。卑小な自己満足のために誰かを貶め、空虚な優越を感じて自慢する人を。
ネットが発達したせいで人の心が劣化したのだろうか。そうは思わない。旧弊で閉鎖的な村空間ではそういうことは往々にして起こった筈だ。ではやはり、人の心はまだまだ不完全なのだろうか。

その設定の生々しさで僕がもっとも辛く、胸を痛めたのは、沙織里がその日だけ弟(美羽にとっては叔父にあたる)圭吾に娘の面倒をみてもらった理由が、好きなアイドルグループのライブに行くためだったことだ。
そのせいで沙織里はネットで叩かれ、後悔に苛まれる。「親はライブでお楽しみのなか娘はいなくなったのか」と責められ、自分がライブになんか行かなければ、と苦しむことになる。
でも人はその程度の楽しみさえも得てはいけないものなのだろうか? もちろん誹謗はナンセンスだ。だが、そういって母親を無責任だ、子どものことを省みない酷い母親だと責める第三者はいるだろう。
われわれは生きているなかで、自分の些細な楽しみを得て、そしてまた明日もがんばろうと思い日々過ごしているのではないのか。そうして地味ながら穏やかで、ささやかながらも幸せな毎日を生きているのでは? それを一瞬で奪ってしまう人間が憎い。そして奪われた家族がどうなるかを目の当たりにして、嗚咽を噛み殺せなくなる。
夫を演じているのは青木崇高。こういう映画ではどうしても「動」の母親に「静」の父親、「激情」の妻に「理性的」な夫、という構図にならざるを得ないのは判るが、青木演じる豊はそれを越えて観るものの胸に迫ってくる
映画としては素晴らしい。扱われている題材として、これ以上に胸が苦しくなる題材も他にない。


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