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『BABYLON』/それは架空のクロニクル(映画感想文)

ディミアン・チャゼル監督の『BABYLON』を観た。
20年代のサイレント映画時代からトーキーへ大きな変革の時期を迎えたハリウッドの混沌を猥雑にゴージャスに描いた映画。好き嫌いは分かれると思うが問題作に違いなく、見応えは十分。1900円払って劇場で観る価値はあった。

主人公は映画スタジオに憧れ仕事をもとめるメキシコ人の青年マニー。
底辺の生活から抜けだすことを夢見る新進女優のネリー。
そしてサイレント映画スターのジャック・コンラッド。
ネリーが偶然から女優の階段を駆け上がり、マニーもまたジャックとの縁でスタジオでの仕事を得る。そうして物語が始まり、やがて技術的変革によりそれぞれが用意された運命に呑まれていく様が描かれる。
ブラッド・ピット演じるジャックにはモデルがいる。MGMのサイレント映画に出演してスターとなったジョン・ギルバート。彼は1927年にトーキー(音声映画)が登場して凋落、表舞台から消える。理由には諸説ありスタジオに干されたといううわさも。
マーゴット・ロビー演じるネリーも同様にモデルがあり、こちらはサイレント時代ハリウッド最大のセックスシンボルといわれたクララ・ボウ。あのマンガキャラクター、ベティ・ブーブは彼女にインスパイアされて描かれたという。

ドイツ人の映画監督やネリーの才能を開花させる女流監督のルース・アドラー、ジャックに「ゴキブリだ」と批判されたゴシップ・コラムニストのエリノアらにもモデルがいて、そういった実在の人々と現実に起こったエピソードをチャゼル監督はあたかも原曲をリミックスし再構築するように『バビロン』という架空のクロニクルを紡ぎあげていく。この辺りの事情については知らなくてもかまわない。スクリーンに映し出される「絵」は大変豪華で煌びやか、彩る音楽もクールだ。
ある時点まではただただ楽しめる。

筋書きは虚実ない交ぜで、脈絡なくエピソードが積み重ねられていく。
印象としてはかなりとっちらかっているが問題はない。ただある時点からその「とっちらかり方」にナルシスティックな気配が漂い、やがてそれが勝ち過ぎる。混沌としつつも『映画』という巨大で得体の知れないコントロール不能な何かに翻弄される人々のセンチメンタルな悲喜劇であったものが、突然監督の自己陶酔交じりの映画への偏愛に思え、観客が置いてきぼりをくう顛末になる。ついていくのか、理解するのか、許容するのか。
あるいは「いやちょっとそれはやりすぎだ。映画は監督のものであるが観客のことも忘れないでほしい」と思うかで感想は分かれる。僕のように。

かつての「映画界」が正体不明の暴君に支配されていたと告発したい映画でないことは当然判っている。
劇中何度も「自分よりも大きなもの」という言葉が出てくる。またある場面で「映画スターは消耗品として消えていくが映画は百年後も残る。役者としては落ちぶれても『映画』の輝きが失われることがない」とも語られる。登場する人物はみんな、『映画』というわけのわからない巨大な何かの一部でありそして生贄だ(『銀河鉄道999』の最終回を想起する人がいるかも。巨大な何かの一部になるために長い旅路に似た人生があり、それはその巨大なものの前では何の意味も成さない)。そしてその関わった刹那において人は輝く、…というテーマには共感できる。だが、過剰にそれを素晴らしいというのは登場人物の役回りであり、監督が声高に叫んでしまえば楽屋落ちだ。メタフィクション? なのだろうか。

先に「とっちらかっている」と書いたが、端的に辛辣なことをいえばチャゼル監督はこの映画が扱う題材に相応しい結末を用意できなかったのではないか。力量が足りないのではなく、描きたいことと描くスキルとのバランスがとれていないのでは? というのが僕の感想だがどうだろう。
途中何度か「お、いいな」と思う場面があり、同時に「しかしこの感じには既視感があるぞ」と思い、よくよく考えるとそれは『ラ・ラ・ランド』(16)なのだった。もしかすれば監督自身いまだにその呪縛が解けずにいるのかも。スケールも凝り具合も数段ゴージャスだが過去作品と比べられるようでは些か残念。
(しかし何故ここ数年、監督自身が「映画」を語ろうとする作品が多く作られるようになったのか。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(19)の影響だと僕は思ているのだが、…。)

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