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『キングダム/大将軍の帰還』/バランスと取捨選択の思い切りがいい(映画感想文)

『キングダム/大将軍の帰還』(24)はシリーズ4作目にして最終章。
原作のマンガはまだまだ続いているので、いったんここらで区切りとするということだろう。役者も年齢を重ねイメージと乖離もするし、ある役者がこれまで演じていた人物をまた世代を越え別の役者が担うのもいいと思う。10年ほどして再スタートすれば営業宣伝的な効果もある。ひとつのコンテンツを「これでもか」と集中的に擦り過ぎるのは『SW』を引き合いに出すまでもなく、観客を食傷気味にしてしまい、挙句は粗製濫造、…。
時間を空けて人びとの期待を煽るのが正解。待たされただけ劇場へ足を運ぶ人も増えようというもの。

これまでに公開された作品は次のとおり。
『キングダム』(19)
『キングダム2/遥かなる大地へ』(22)
『キングダム/運命の炎』(23)
そして今作。

以前も書いたが2作目は主人公・信が名もない一兵卒として初めて戦に出る蛇甘平原の戦いが中心に描かれる。巨大な指揮権の一部として人は扱われ、いざ始まると「個」が失われるのは戦場の道理だが、感情移入がし難くエモーショナルな興奮が損なわれる。
この2作目ではその欠点を、魅力的な暗殺者一族の娘・羌瘣が補う。彼女の存在がなければ作品が大味過ぎ、ここで僕の『キングダム』鑑賞が終わっていた可能性もある。
反面一兵卒でしかない信が、大企業を舞台とする出世譚のごとくまずはたまたま近くにいただけの同期の信頼を得、それから上司に認められていく過程はおもしろい。

このテイストは3作目にも引き継がれているが、パターンには限りがある。戦の見せ方も迫力はあれ既視感もある。
隊を率いる将軍たちに個性はあるが実際に彼らが前線で戦うことはなく、観客の気持ちを激しくゆさぶることはない。
3作目で(マンガ原作がそうなっているのかは知らないが、)「個」の部分を引き受けるのは秦国の王・政で、前半で彼の過去がエモーショナルに語られる。
このように2作目では「羌瘣と戦」、3作目では「政と戦」といったコンビネーションで、感情に訴えるミクロの物語と、ダイナミズムで圧倒するマクロの物語とがバランスを考えて配置されている
作り手たちが「これでは大味になる」「こうするとダイナミズムが死ぬ」といったかなりかなりハイレベルな検討をしていることが窺える。

だが、こうしたシリーズ作品においておもしろいのはやはり1作目なのだ。
なにより1作目がヒットしないと以降続けて作られることはない。
「さらに先まで構想のある物語」の持つ様々なエッセンスをあれもこれも見せておく必要がある(本当はこんなおもしろい挿話もあとで出てくるんですよ、は通用しない)。
1作目は、かなりの集中力と思い切ったエピソードの取捨選択や構成の変更もしたそうだが、原作者の原泰久が脚本に深く関わっていたからこそできたことだろう。「おもしろさのエッセンス」を凝縮することに成功している。
まだ大隊を率いてぶつかり合うことのないこの1作目では、クライマックスに二段階の、異なるテイストを持った「個」と「個」が戦う場面が用意されている

魅力的な敵役がいてこそ主人公が光る、などといまさら繰り返すまでもないが、格闘ジャンルでは強さがインフレーションを起こしリアリティが損なわれることもあると観客も気付いた昨今、素晴らしい敵役や既視感のない組み合わせを考えるのは難しい。
なによりもわれわれは感情移入しながら、あるいは自身を投影しながらドラマを観る生き物である。だが等身大の主人公のパターンもひととおり出尽くした感もあり、またその位置づけ故に主人公はもっともニュートラルで真っ当な能力に性格を付与されてもいるので、なかなかバリェーションが付けにくい。
そこで最終章と銘打たれた『キングダム/大将軍の帰還』が最大のクライマックスとして用意したのは、主人公・信ではなく、信が憧れる大将軍・王騎だった。彼を中心に据え、そして彼の物語として完結させる
いやー、お見事。

先にいっておくが今作には大きな欠点がある。
王騎と、対決する龐煖以外の人物の影の薄いこと、薄いこと、…。
ここまでずっと思わせぶりに「きっとスゴい能力を秘めているのだろう」「何かとんでもない策謀を巡らせているのだろう、本当は」と醸し出し続けてきた人物たちが、まったくぱっとせずに終わった。信も、秦王・政でさえも影は薄い。1作目で活躍を期待されたヒロインの位置づけである河了貂に至っては結局シリーズを通して一度も見せ場はなく、…。あわれだ。(ずっと変な格好だし。最後は無能呼ばわりまでされてしまい、…。)
だが、それでも監督の選んだ構成は正しかったと思う。
結局シリーズを通してみれば『キングダム』という物語は信という発展途上の少年を狂言廻しに、その彼の目から見た乱世中の、ひとりの大人物の偉人伝だったわけだ。ええ、判ってますよ。いまさらながらの手垢に塗れた凡庸なことをいっているってことは。でも誰が見てもそうとしかいいようのない終幕なのだ。
それほど大沢たかお演じる王騎にすべてが帰結している。もう、ひたすら圧倒されるのだ。

王騎は、主人公・信だけでなく、誰もが惹かれる大将軍である。異様な見た目は武力に長けていることを思わせ、しかし振る舞いや言動からは並々ならぬ知性を感じさせる。
そしてまたしても洞察である。なぜこの場でそんな振る舞いをするのか? という疑問の裏には深い配慮がある。それは戦というものを、軍を動かすということを、そして勝つということをよく理解したものだけが有する思考であり、その見せ方が(正直、ここまでの作品において王騎がそれほど何かをしているわけではない。)上手かった。大沢たかおの醸し出す雰囲気と、彼を登場させるタイミングを考え抜いた監督や脚本家の力だ。
これまでの作品(2と3作目)がそうであったように、前半ミニマルな視点で描かれる「個」は、ぎりぎり信である。あるいは飛信隊のメンバーか。その裏旋律として王騎の過去とその過去に登場する人びとについても語られる。
王騎と対決するのは、龐煖。
演じるのは吉川晃司だが、素晴らしいと思う。王騎は1作目から登場してカリスマ性を観客に植え付け続けてきた。だが龐煖は前作の最後の場面で現れ、しかもその顔もほとんど闇に紛れて判らない。「え、もしかして吉川?」といった程度だが、4作目を胸踊らせて待つ間に起こったイマジネーションのマジックなのか、いきなり登場して、そして王騎の敵として不足はない、という空気を作り出しているのだから。映画って本当におもしろい。キャスティングと脚本と演出と、そして演じる人の持っているテイストとが思惑を超えた結果を出すのだから。個人の作業である小説と違い、羨ましさを感じるのはこういうところだ。

どの時点で4作で完結すると決まったのかは判らないが(『ゴールデンカムイ』(24)の成功で東宝の制作戦略に目途がついたのか、…。山崎賢人を『GK』に起用している点からして今回の一旦終息は決まっていたのか)、原作者、監督、脚本家、そしてもちろんスタジオも含めて、本当にバランスに対する配慮が行き届いている。
他のキャラクターがたとえ中途半端な活躍で死んでいたとしても、それでも「王騎と龐煖で今作は行こう。これで締めくくろう」と決断したのは本当に勇気がある。誰かが会議において「信が目立ちませんねぇ」といったと思うが「でも、それでもこれでいいっすね」となったのだと思うと、いかに彼らがこの物語を大事に思っているかも判る。

ここ数年、『ケイコ/耳を澄ませて』(22)や『福田村事件』(23)、『市子』(23)『あんのこと』(24)と日本映画はついに得意とするジャンルを見い出したと思っている。反面、エンタメ大作としてはいつも適当な折衷案の企画で、いかにも全方位的に中途半端でくだらない作品ばかりだぜ、と思っていたのだが、日本のキラーコンテンツであるマンガ原作を活かし、大作が作られるようになって嬉しいかぎりだ。

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