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『フェラーリ』/弱くて甘ったれの、自分勝手な帝王(映画感想文)

昭和生まれの男子にとってスーパーカーといえばフェラーリかランボルギーニ。憧れだった。
『フェラーリ』(24)の主人公はそのフェラーリの創業者エンツォ・フェラーリ。
巨大な帝国を築き上げ、経営面でも以外でも訪れた様々な危機を乗り越えた頑固で老獪な男。演じるのはアダム・ドライバー。
公式ホームページには「F1界の帝王と呼ばれた男の情熱と狂気を圧倒的熱量で描く、衝撃の実話。」とある。監督はマイケル・マン。あの『ヒート』(95)のなどといまさらいうまでもなく“男”を撮らせれば右に出るものはいない。邁進する稀有な狂気の男の映画だと誰もが思うだろう。
だが

エンツォはもともとはレーサーだった。レースチームを創立、のち引退。正妻のラウラを共同出資者としてフェラーリを創業する。ラウラはトリノの資産家の娘だ。
そのラウラとの間には息子がいた。フェラーリの家系は長男をアルフレードと名付ける習慣があり、この息子も倣った。愛称はディーノ。だが自動車工学を学んでフェラーリに入社し、これからというところで24歳の前途あるこの若者は筋ジストロフィーで亡くなってしまう。ラウラとの夫婦関係も急速に冷えていく。
エンツォはレースに対するこだわりが強かった。「ジャガーは売るために走るが自分は違う。走るために売るのだ」と宣言し商売として自動車を造ることをよしとせず、憑かれたように速い自動車、速いレーサーを求め続ける。死者が出ることも度々だが悔い諦めることをエンツォはしない。邁進する。停まることを恐れるように。停滞すれば自分ではなくなる、自分の人生の意義が失われるとでもいうように。だがそのためにやがてフェラーリ社は経営が難しくなり、資金繰りを関係も冷え切り顧みることもいまは少ない正妻に頼らなければならなくなる。だがラウラもまた情熱的で行動する女なのだった、…。

『フェラーリ』の公開前、僕は妻とこの映画を観に行こうとしていた。都合がつかず結局僕ひとりでの鑑賞となったが、それでよかったといまは思っている。女性には観せたくないし、きっと観ても判ってはもらえまい、…。
結論からいえば映画『フェラーリ』はおもしろかった。自動車に乗りもしない僕でも。いや、おもしろかった、という感想は実は正確ではない。「大変共感できた」が正しい。

ここで描かれていたのは情熱的で狂気をもって邁進する強い男なんかではなかった
表向きは情熱的で強靭で信念を曲げないように見せながらも内面は脆く、自分の都合ばかり優先し、常に誰かに助けの手を借りる、甘ったれた男がここにはいた。そしてそれはエンツォ・フェラーリというひとりの男にだけ限った話ではなく、多くの男性が身に覚えのある共通を覚える姿でもあったのだ。
僕には、エンツォの甘ったれた自分勝手な行動も理解できるし共感もできる。きっと映画を観た多くのあなたもその筈だ。
あなたが男性で、そしてエンツォをただカッコいいとか、逆にダサいだけや、とか思ったのなら、そのあなたはきっと男として奔放に自由を謳歌して生きてはいない。都合のいい甘言を女性に弄してその場を誤魔化し、ただ自分が都合よくやりたいようにやった、という覚えがないのではないか。
好き勝手に生きてしくじりながらもエンツォは女性に救われ、そのことを自覚もしていない。カッコ悪い? そうカッコ悪い。だがこれこそが男の本当の姿なのでは?
だからこの映画は女性に冷静に観られると、大変困る

口では「命懸けで臨め」とカッコいいことをいいながら、裏では正妻に頭が上がらず、愛人にはむしのいいことばかりエンツォはいっている。
亡くなった息子のことがいまも忘れられない。
それは当然ラウラもなのだが、彼女はその痛みを隠さない。傷の痛みを誤魔化すことなく悲しみの感情をしっかり自分で引き受けている。ただめそめそしている誰かとは大違いだ。そのくせエンツォは愛人に子どもを産ませてもいる。
若くてしっかり者の愛人はエンツォに何かを求めるということをしない。それにも甘えている。そのよくデキた愛人がひとつだけ望んでいるのは、息子を認知しフェラーリの姓を名乗らせること。動機は(実際にはいろいろあると思われるが。劇中では)その幼い息子がレースと、そしてフェラーリに憧れているから。だがエンツォはその息子の夢も叶えず、現実の(正妻との間に起こるであろう)厄介事を先延ばしにし続けていた。
なんとも情けない。
マイケル・マンがどう意図して撮っているのか、興味深いながらも判らないのだが、ぼんやり観ているとこのエンツォの不甲斐なさは気付きにくい。やはりレースに関わる場面では彼の哲学や決断、思い切りが輝くのだ(男として)。
だが、最後の最後までエンツォは女性二人の間でもぞもぞし続け、そして二人の女性を人として越えることはない。

この映画、自身もフェラーリ愛好家である監督自身が長年製作を願っていた企画だという。本当か? といいたくなる。なぜ、こんな不甲斐ない姿を描き出したのだろう(僕の見方が間違っているのか!?)。
当初エンツォ役はクリスチャン・ベールだった。それがヒュー・ジャックマンに変わる。どちらであっても強くタフな印象だ。出来上がった映画を観たものとしてはしっくりこない。見た目はタフでも内面は脆い、というキャラクターを思えばアダム・ドライバーで相応しかった
この映画のことを知ったとき、別にアダムが主演を務めるからというわけではないがマイケル・マン版『ハウス・オブ・グッヂ』(21)のような映画になるのかと思い、観始めてしばらくもその印象が拭えなかったのだが、いま重なるのは『NINE』(09)だ。どちらも才能はあるが情けない男の映画であり、どちらも女性の手の上で踊らされながらのんきに夢にむかい続ける映画でもある。

こういう、カッコ悪いが本当の姿を容赦なく晒す映画が僕は好きなのだ。アダム演じるエンツォのダメっぷりは生々しい。他人事とは思えない。
映画はかつては多くの人の人生を同時に揺さぶるものだった筈だが、先日観た『大いなる不在』(24)といい『フェラーリ』といい、観るものとの微妙なチャンネルのマッチングが是非を左右する映画が最近多い気がする。
多様性云々というわけではなく、映画がそれだけ観客の内面に深く入り込み、その人の生き様を照射するものにもどっているのならいいことだと思う。
かつて『SW』が映画を殺した、という言説があって僕も「そうかもしれない」と思っている。それ以前は映画は考えながら観るものだった。街を出てよかったのか、銃の引鉄を弾いてよかったのか、許すべきだったのか、…。やがて観客の身に降りかかるであろう(あるいは降りかかった)人生の様々な問題を映画は扱い、考えることを求めた。圧倒的娯楽作品として『SW』が登場し、以降映画は「考えなくてもいいエンタメ装置」に堕したというのだが。いま再びこうして僕らは劇場でスクリーンに向き合い、人生について、生き方について考えるきっかけを得ている。考えなければ人生はおもしろくない。振り返り過去の自分の経験のアーカイブを参照しながら「どっちに進むべきかな」と思案するのは、いいとか悪いとかいう問題ではなく必須だ。
エンツォ・フェラーリの人生を、僕は先に「甘ったれた」と書いたが、しかし彼がレースに対し情熱を燃やし、それだけを突き詰めようとした点は間違いはない。それをよし、とできるのは自分も何かに打ち込んだ者だけだろう。その過程で何かを犠牲にすることを自分に許すか、人生を懸けた夢の前では他のことはぐだぐだになってもいいと思えるかは、…それぞれの人の心の在り様次第ではないかしら。
ただ、自分の側にいてくれる人だけは大切にしないとな、と思うのは、そういった他者との思いやりの交歓にこそ人生の愉しみや悦びがあると僕は思っているからなのだが。

映画の最後でエンツォが、これまで認知を先送りにしていたまだ幼い息子に「兄を紹介しよう。ずっとお前に紹介したかったんだ」とディーノの墓を案内する場面はきっと作劇上のフィクションだと思うが、まんまと泣かされてしまった。
彼にとっては愛人の息子もまた大切な息子であったのか! と。そして同時に「お前、それはむしがよすぎるやろ!」(正妻や愛人の気持ちになれば何を自分勝手なことを!)とつっこみもしたのだが。
(ちなみに愛人との間のこの息子ピエロは正妻ラウラの死後に認知されているが、45年に生まれてラウラの死が78年って、…待たせ過ぎだ。現在はフェラーリの副会長職)

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