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『ドラゴン・タトゥーの女』/最高傑作のあとの落とし前(映画感想文)

一本しかない橋で本土と繋がる小島に住む大企業家の一族。かつては鉄道産業など国の隆盛に関わっていたがいまは往時ほどの力はない。その当主に招かれた探偵は40年近く前に失踪したひとりの娘の調査を依頼される。いったい何があったのか? 島に住む一族のものたちは誰もが異常な性格をしている。探偵は一族の隠された過去の秘密を調べていく、…。

こう書けば横溝正史モノ? と思われるかもしれないが違う。デビッド・フィンチャーの『ドラゴン・タトゥーの女』(11)だ。『ソーシャル・ネットワーク』(10)=『風立ちぬ』(13)説を唱えたこともある僕だが、より納得が得られると思うのは劇場を出たあとの妻の感想も「横溝みたい」だったから。何の因果関係もないのはもちろん判っているけれど、市川崑が「金田一耕助は天使なんですよ」といった言葉と『ドラゴン・タトゥーの女』の主人公がミカエルという天使の名前を持つことはなかなか暗示的だ。

「金田一を天使にすることで、彼は『事件=作品世界の外側』にいるということになる。作品世界の外側にいるということは、同時にそれは観客と同じ目線で事件を見つめているということになる」(『市川崑と「犬神家の一族」』春日太一)
と市川崑はいったが、ミカエルは金田一と違い事件の外側になどいない。
生身の人間の手応えがミカエルにはある。プライドもあるし長い関係の人妻の恋人もいるし、撃たれれば怯えて悪態もつき、がっかりもする。
007で無敵のボンドを演じるダニエル・クレイグがミカエル役だ。劇場で最初観たとき、頼りないダメ探偵だ、と思ったが二度目に観て誤りだったと気付いた。なかなかの腕利きである。
その彼と、タイトル通りに龍の刺青を持つ女調査員リスベットが組んで過去の少女失踪事件に迫っていく。ナチス、凄惨な連続殺人といったダークなお膳立てのなか、おっさんとディスコミュニケーションの権化のような少女の二人が謎を解き真相に迫っていく様は圧巻だ。

フィンチャーのフィルモグラフィには少なくとも三本のサイコキラーを扱った作品がある。
『セブン』(95)、『ゾディアック』(07)、そしてこの『ドラゴン・タトゥーの女』だが、テイストはまったく別物。フィンチャー自身は『ドラゴン・タトゥー』を「異質な二人がそれぞれを見い出し互いに惹かれあっていくロマンス」として撮っている。僕は、これは『ゾディアック』に対する落とし前ではないか、と今回観ていて思った。

実際に起こった未解決事件に肉薄する『ゾディアック』がフィンチャーの最高傑作だという思いは今回も揺らがなかった。以降彼が何を撮るのか? さほど期待もできずに待っているとアカデミー狙いなのか、『ベンジャミン・バトン/数奇な人生』(08)を撮り、肩の力を抜いた(ように見える)『ソーシャル・ネットワーク』を撮っている。その次には? と思っているとまさかの原作付き、それもリメイク、そしてサイコスリラー。毎回異なるアプローチをするのは判っているが、いったいなぜここで、という気もする。
フィンチャーには二つの大きな異なる主旋律があり、ひとつは限りなくドキュメンタリータッチの過剰な盛り上がりとは無縁の作品群。もうひとつが映画のダイナミズムを活かした完璧なフィクション然とした作品群。『ゾディアック』は前者である。事件に取り込まれた男たちは謎が解けるまで憑かれたまま。見えない、そこにあるのかどうかも不確かな中心をめぐり、男たちはぐるぐるとひたすら円環の周囲を回り続ける。終わりはない。ただ謎を解きたいという意欲だけがある。それは呪いだ。「解きたい」と思わせられしまったのだ。そのゾディアックの呪いのようなものがフィンチャーにも憑いてしまっていたのでは? という気がする。
解かねばならない。ぐるぐるとただ回り続けるだけでは先に進めない。フィンチャーは「謎を解く物語」を描く必要に迫られた。気付いたのだ。解かねば、先に進まないと。解いて、物語を完結させなければならない。映画は娯楽装置の宿命として、きっちり終わりを迎えなければならないのだから。その「解く」手助けが必要だった。そうして降りてきたのがリスベットだ。
ミカエルとリスベットが出会ったところから、まるでその意趣返しだとでもいわんがばかりに巧妙に隠された謎は次々と解き明かされていく。
リスベットはミカエルにとって物語中の事件を解き明かす天使であり、そしてそれ以上に、確かに彼女は監督にとって、呪いを解くミューズでもあったのだ。
そしてようやくフィンチャーは次のステージに進んでいくことができる。ミカエルも、また。

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