新インド仏教史ー自己流ー

新インド仏教史―自己流―
これから、インド仏教史を語ろうと思います。自己流と添えましたが、勝手気ままで、不正確であるという意味ではありません。概説書のようにミスを犯さないことに気を遣うでもなく、研究論文のごとく最新の知見を披露するものでもないことを伝えたかったのです。とにかく、自分流に自由に書きました。
時に話は、インドではなく、日本を舞台に進みます。端的に言って、インドと日本では、仏教の姿かたちが、あまりに違い過ぎて、同じ仏教で括ってもよいのかという疑問に襲われます。お釈迦様が、日本の仏教を目にしたなら、「私はこんな教えを説いていない」と言うはずです。でも、「日本の仏教こそ、最終的な果実であり、究極の仏教である」と主張する研究者もいるのです。
 判断をするのは読んだ人、今を生きる人自身ですが、双方を比較して選択するのがベターでしょう。そんな想いがあって、かなり自由に書いてみました。
本文には、引用も多く、時には、ネットから抜粋したものを掲載する場合もあります。引用は、著者・書名等を記し、ネット抜粋も、最終閲覧日・サイト名等を示すようにしています。至らぬ場合もあるかもしれません。また、引用が英文の際は、私訳を添えました。注意しましたが、間違いがあればご指摘ください。


第1回 インド仏教とは?
その1
インド哲学やインド仏教学という分野は、それほどメジャーではありませんが、その呼称を聞いた方が、違和感を覚えるほどマイナーでもありません。世の中に定着している証(あかし)でしょう。しかし、この分野が広く行われるようになったのは、明治を迎えてからです。皆さんがこれから学ぶ分野は、どのようにして誕生したのでしょうか?まず、そこから話を始めましょう。大分以前の学者に宇井(うい)白寿(はくじゅ)(1882-1963)という人がいます。非常に高名な学者です。その人が伝える由来話(ゆらいばなし)です。
 「印度(いんど)哲学(てつがく)」といふ名がどうして起つたかということについて話してみようと思います。「印度哲学」という名が起つたのは実は、私の知る限りでは、殆(ほとん)ど偶然なことからであります。東京(とうきょう)帝国(ていこく)大学(だいがく)がまだ単に帝国大学と呼ばれて居(い)た時代、明治二十年頃でしょうか、即ち京都にはまだ帝大がなかった頃のことでありますが、その時期の帝国大学総理―当時は総長ではなく総理と言ひましたがーその総理に加藤(かとう)弘之(ひろゆき)という人が居ました。この人は当時学界第一流の法律と哲学の学者でありまして、法学博士と文学博士との二つの学位をもつて居られましたし、進化論をはじめて西洋から日本に取入れた人です。…この人が明治二十年の頃、「仏教の方にも哲学があるということだから、それを大学で講義しよう」と言い出して人を探したのですが、その時曹洞宗(そうとうしゅう)に原担(はらたん)山(ざん)という人が居まして、其人(そのひと)がよかろうということになったのださうです。…加藤総理はこの人に講義してもらおうと思つて、頼みに行こうとしたのですが、さて何処(どこ)に居るのか分からない。一日中人力車(じんりきしゃ)に乗つて捜(さが)し回つてやつとのことで探し出して講義をしてもらうことにはなりました。併(しか)し、「仏教哲学」という名前を使つたのでは、当時は基督(きりすと)教(きょう)との関係上困るということになりましたので、そこで仏教は印度の哲学であるからというので、遂(つい)に「印度哲学」という名が発明されたわけであります。従つて当時は「印度哲学」とういふ名は実に仏教哲学を意味して居り、後にこれが講座の名ともなつたわけであります。はじめ原氏は宋(そう)の契(かい)崇(すう)が仏儒(ぶつじゅ)調和(ちょうわ)〔仏教と儒教の調和〕のために書いた輔(ほ)教編(きょうへん)という本を教科書として講義しましたが、当時に学生にはあまり容易すぎるというので、本をかえて大乗起(だいじょうき)信論(しんろん)を読んだりして居ました。このことは当時其(その)講義(こうぎ)を聴いた人から私が聞いたことで、後に有名になつた諸先生方が講義に列せられたさうです。…原氏にひきつづいて本派(ほんぱ)本願寺(ほんがんじ)の吉谷(よしたに)覚(かく)寿(じゅ)氏が講義をなし、次には大谷派(おおたには)の村上専(むらかみせん)精(しょう)氏が講義をしましたが、この人の講義は二十数年間つづきました。つまり、原、吉谷、村上と三代の間は、「印度哲学」の名の下に実質的には仏教をやつて居たのでありますが、私が明治三十九年に入学した時に、はじめて「印度哲学史」といふ講義が出来、印度一般の仏教以外の哲学、所謂(いわゆる)外道(げどう)哲学(てつがく)までもする様になつたのであります。又、同年はじめて京都文化大学が出来、ここでも印度哲学が哲学第四講座として開設されました。…京都では、仏教以外の印度一般の哲学を「印度哲学」の名の下に講義し、仏教は却(かえ)つて入らなかつた様であります。これに対し東京では、ヴェーダ、ウパニッシャドの古代から講義をはじめ、時代を追つて次第に仏教にも及ぶという歴史的方法によつて居ました。従つて東京出身者が印度哲学の講義をする時には仏教も当然その中に入るわけであります。…大正十二年、関東大震災のあつた年に、東北大学が法文学部をつくることになりましたが、その中に印度哲学を入れるというので私が仙台に赴任(ふにん)しました。はじめは印度哲学は哲学第四講座ぐらいに入れようと考えて居たやうでありましたが、西洋哲学の人達が「印度哲学の様なのもは哲学の中に入れるべきではない」と言つて反対したので、こちらも「それでも是非(ぜひ)・・・」と言つて、頭を下げてまで、仲間に入れてもらうのもいやだし、結局「印度学」といふのを講座の名前にして西洋哲学とは別に講座となして印度哲学を講義することにしました。これが日本で「印度学」という名を用いたはじめであります。併(しか)し、この「印度学」に相当する西洋語のIndologie〔インドロギー〕は当時としては、世界一般の傾向からいうても印度哲学とう意味には用いられず、寧(むし)ろ印度や中央(ちゅうおう)亜細亜(あじあ)の言語学的、考古学的研究を意味して居ましたので、先生方の中には「それでは講座の名前と講義の内容が違うではないか」といつてあやぶむ人もありました。併し「マアマアそうやかましくいはずに一つ独自の考方(かんがえかた)で行こう」ということで、結局「印度学」といふのを講座の名前にしたわけであります。つまりそれほど印度哲学といふものは、当時一般に哲学をやつて居る人々の間では認められても居らず、又、問題にもされて居なかつたわけであります。(宇井伯寿「特別講演「印度哲学」命名の由来」『インド哲学から仏教へ』1976所収,pp.499-502、ルビ・〔 〕内私、1部現代語標記に改めた)
今日では想像も出来ないくらい日の当たらない、マイナーな分野であったことがわかります。
では、こうして生まれた、インド哲学やインド仏教学は、知的研究のために作られた純粋な学問と受け取っていて良いのでしょうか?この点についても、鋭い指摘があります。学習を始める前に、頭に入れて置いてもらいたいと思い、次に紹介します。
 インド学という学問領域は、西洋による東洋の植民地化政策から要請(ようせい)されて成立したものなのである。…西洋のインド学がわが国にもちこまれたのには、それなりの理由がある。それは国策(こくさく)である。…インド学が国から大いに優遇(ゆうぐう)されるようになったのは、…大(だい)
東和(とうわ)共栄圏(きょうえいけん)構想(こうそう)が出来上がってからのことである。陸軍が秘密(ひみつ)裏(り)に、インド東部の詳細な地図を作製していたことは、よく知られている。…そして、アメリカの世界戦略にと
って、ソ連だけでなく中国にもにらみをきかす重要な戦略地域として急浮上してきたのが、インド洋をかかえる南アジアであった。インド学は、アメリカでは、南アジア研究へと変遷(へんせん)し、南アジア研究には、莫大(ばくだい)な教育、研究予算が注ぎ込まれた。これと呼応(こおう)するかたちで、わが国でもインド学が息を吹き返し、一九五一年には、全国規模の大きな
学会として、日本(にほん)印度学(いんどがく)仏教(ぶっきょう)学会(がくかい)が設立された。そして、よりアメリカ型にインド学研究を目指すものして、一九八八年には日本南アジア学会が設立された。インド学、南アジア研究という枠(わく)概念(がいねん)のもとにいるわが国の研究者たちは、おそらくだれ一人としてそうは思っていないであろうが、こうした学問体系は、国益(こくえき)のための国家戦略を土台として成り立ってきたのである。…地域研究は、学問および人間の知性に資するためにあるのではなく、あくまでも国益に資するためだけに存在意義が認められているのである。
(宮元啓一『インド哲学七つの難問』2002,pp.6-9、ルビ私)
ずいぶんと危なげな指摘に見えますけれど、的を得ていると思います。

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