自己紹介@現役マタニティーナース


はじめてnoteというものを知り、何かを書いてみようと思う。

しかし何を書こうか...。

物事をいろいろ考えることが好きで、頭の中で悶々と考えていることが多いので、私の頭の中をnoteに残していきたいと思っている。

でもまずは、私という人間を知ってもらいたいと思う。

なぜそんな思考になるのかは、生い立ちや今までの経験に大きく左右されていると、私自身が考えているためである。

現役マタニティーナースと今の私を書いてみたが、生い立ちを振り返るといろいろとあった。

これからその経験も少しずつ語っていきたいと思っている。

前置きが長くなってしまったが、ひとまず私のざっくりとした生い立ちを紹介する。


誕生~保育園時代

平成3年、教職を務める両親のもと、長女として誕生。1900グラムという低体重児であったが、母乳をよく飲む子供で、すぐに大きくなった。

2歳の頃、弟が誕生。弟とは幼いころからたくさん遊んで、今でも仲が良い。保育園に通いだすが極度の人見知りで、特定の先生にしか懐かなかったらしい。

3歳の頃、父が事故に遭い、高度障害を負う。障害とは具体的に言うと、頭部外傷による全失語と重度右半身麻痺である。父は長い入院加療とリハビリを行うことになり、教職も退職した。母は生活を支えるために教職を続けながら父の介護をすることになる。

6歳の頃、保育園を卒業。人見知りは継続。父の介護で母が大変な思いをしていることはよくわかっていたので、「母に迷惑をかけないように、いい子でいよう」といつも思っていた。わがままは言わない、お手伝いもする子だった。


小学校時代

7歳の頃、地元公立小学校へ入学。

8歳の頃、母が父を連れて初めて運動会に来てくれた。今までは母だけだったのでとてもうれしかったことを覚えている。父は車いす生活で、言葉もでないのだが、父のことが大好きだったので率先して車いすを押した。すると母に「こんなに上手に車いすを押せる子はいないね」と言われた。すごく嬉しかった。でも父が車いすというだけで好奇の目を向けてくる人もたくさんいて、辛い気持ちにもなった。

9歳の頃、友達がたくさんでき始め、人見知りを克服。同じクラスにダウン症の子がおり、その子の世話を積極的にしていた。誰かの役に立つことがうれしいと思っていた。

12歳の頃、私立中学への受験を決意。なぜこの中学を受けようと思ったのかははっきりと覚えていないが、地元の中学が荒れていたので先生に勧められたことは覚えている。受験の末、私立中学に合格。地元の友達との別れが寂しかった。


中学時代

13歳の頃、私立中学へ入学。いわゆる地元のお嬢様中学。女子独特のギスギスした雰囲気と厳しい校風であり、私に合うのかと疑問を持ち始める。しかし母に心配をかけたくないのでこの疑問はそっと胸に閉まった。

15歳の頃、中学3年で部活の部長となる。でも学校が自分に合わないと思いながら耐える日々であった。思春期の女子たちは互いに悪口を言い合い、派閥を作っていたので、それを見るのも、巻き込まれるのも嫌だったが、いじめられないためにいい子のフリをしていた。学生の95パーセントがそのままエスカレーター式に高校へ進学するので、私も何も考えず高校へ進学。初めて彼氏ができた。


高校時代

16歳の頃、初めて同じクラスになった子になぜか悪口を言われるようになった。「あいつは調子に乗っている」「可愛くないのに彼氏がいる」などと言われた。その子は先生に、私に彼氏がいることを告げ口し、反省文を書いたりもした。初めは「なんで彼氏がいてはいけないのか」と思っていたし、「そんな悪口を言っているやつなんて知るか」と思えていたが、毎日悪口を言われ、それを聞いた子たちもみんなして私を無視するようになったころは、心底学校生活に疲れ果てていた。部活の友達にも悪口を告げ口され、無視されたりもした。学校のどこにも居場所がなかった。一人で学校の裏の日陰でご飯を食べているときだけが心の落ち着く時間だった。友達がいなくなったことは母には言えなかった。心配をかけたくなかった。彼氏とは何がきっかけか忘れたが別れた。

17歳の頃、今までは「ブス」だとか「調子に乗っている」などの悪口だったが、このころ「カンニングをしている」とか「援助交際をしている」、「こいつのお父さん、頭がイッている」といった有りもしないことや家族のことを言いふらされるようになった。聞かないふりももう限界だった。中学の頃から学校の厳しい校風が合わないと思っていたし、楽しみもないこの生活から逃げ出したいと思った。もう限界と思い、泣いて母に学校を辞めたいと言った。母は驚いていたが、私の辛い思いを話したら一緒に涙を流して「そんな学校、辞めよう。でも高校卒業はしてほしいからほかの学校へ行こう」と言ってくれた。高校2年、私立高校を辞め、通信制高校へ編入した。

17歳、通信制高校へ編入。今まで憧れていてもできなかったことをたくさんした。髪を染め、ネイルをし、スカートは短く、化粧もばっちり。バイトもたくさんした。同じ境遇の友達もできた。楽しい。でも将来を考えると不安になった。「通信制高校を卒業するような人はきっと就職も進学もできないんだ」と思っていた。そんなとき先生に「なんで諦めるんだ。まだまだ人生が選べるんだよ」と喝を入れられた。そこで自分の将来について考えてみた。小さいころ母に車いすを押すことを褒められて「私が一番上手なんだ」と思って自信を持てて、人見知りを克服したことを思い出した。介護が必要な父とずっと暮らしてきて、患者や家族の苦悩は誰よりわかっているつもりだった。私にしかできないことが「看護」にあるのではないかと思うようになった。親孝行もしたいと思い、塾には通わず勉学に励んだ。元々いた高校の人に勝ちたいという気持ちもあった。その気持ちを盾に勉学に励み、旧帝国大学の医学部看護学科に合格した。


大学時代

18歳の頃、ギャルが抜けず、金髪で入学式へ行った。でも友達は優しかった。サークルに入り、友達もたくさんできた。勉学はそこそこにサークルと居酒屋のバイトを頑張って、できるだけ仕送りがなくても生活できるように頑張った。それが親への孝行だと思った。

通信制高校での授業では網羅していない内容が、大学で授業の中で必要になる場面があった。勉強をさぼっていたツケが回ったと思ったが、何とか勉強して乗り越えた。

国家試験へも必死に勉強し、看護師と保健師の資格を習得。大学も4年間で卒業。地元へ帰って親孝行しようと決め、地元の総合病院へ就職を決めた。通信制高校のことは就職にはほとんど影響しなかった。(特に聞かれることもなかった)


就職

22歳の頃、高度急性期病院へ就職。別の大学を卒業した同期と共に仕事を始めたのだが、想像を絶する忙しさだった。バイトで忙しいのには慣れていると思ったけど、看護師の仕事は多岐にわたっているし、常に多重業務であるし、患者さんは一人ひとり病状も異なる。本当に大変な毎日だったが、必死に勉強したし、同期と励ましあって何とか乗り越えることができた。高校時代の経験から「一つのことを途中で投げ出さず、やり遂げることのできる人になりたい」と思っていたので、とにかくがむしゃらに頑張って乗り越えた。

24歳の頃、同じ病棟に回ってくるセラピストの同期と仲良くなり、後輩なども含めよく飲みに行くようになった。その人と1年の友人期間を経て告白を受け、交際を開始した。

26歳の頃、仕事ではいろいろな仕事を任せてもらえるようになった。26歳になってすぐ、彼と同棲も始めた。彼は本当にまじめで、一つのことをやり遂げる強さがある人で、感情の起伏も少なく安定した人だった。その安定感が居心地がよかった。

27歳、彼氏にプロポーズされ、結婚を決める。27歳の終わりに結婚式を挙げた。

28歳、結婚してから半年、子供を授かる。現役マタニティーナースとして働いている。


簡単に書こうと思っていたのにこんなに長くなってしまった。

自分の文章力のなさには驚きを隠せない。

こんな生き様の私が、日々の中で思うことをここに綴っていこうと思う。


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