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桑田真澄

 半年ほど前から奇奇怪怪というポッドキャストを聴いている。そのポットキャストで元巨人軍エース桑田真澄の投球フォームを分析したテレビ番組の話をしていた。要約すると、桑田真澄の制球力は投球フォームの再現性からきているのでは?という仮説をたて、実際にフォームを撮影するという内容だった。桑田は同じフォームで投げることを意識していると語っていたが、最新の技術で撮影すると毎回フォームがバラバラだったのだ。

 小学生の時、僕は少年野球でピッチャーの練習をしていた時期がある。ピッチャー候補として選ばれた理由は背が高かったからと言う捻りのない理由だった。元々ノーコンだったため、ストライクがまったく取れず自分のピッチャー適正のなさを日々感じ、中々にしんどかった。そんな時あるコーチから、「同じフォームで投げることを意識しなさい」と助言をもらった。初めは意味がわからず押し黙っていると、「ストライクゾーンに入るフォームで投げたら、ストライクが取れるだろ?」と言われた。人生で初めて発想の転換が起こった瞬間だった。つまり、ストライクを取るためにストライクゾーンへ投げるという意識から、ストライクを取るために同じフォームで投げるという意識に変わったのだ。当時から根性論が気に入らなかった僕は、子供ながらになんて理にかなったことを言う人だと感動したのを覚えている。それからは同じフォームで投げることを意識して練習を続けたがその後もストライクは中々取れず、おまけに肘を軽く痛めたことで僕の短いピッチャー人生は幕を閉じた。

ここで桑田真澄の話に戻る。ではなぜバラバラのフォームでも桑田はストライクが取れるのだろうか?カメラはその瞬間を捉えていた。それは、毎回バラバラになってしまう桑田のフォームに合わせて手が、指先が、無意識のうちにリリースポイントを微調整していたのだ。毎回同じフォームで投げていると思っている頭、それに反してバラバラの動きをする体、けれども同じところへボールを放るために調整する手。全部が全部バラバラだったのだ。最後は感覚なんかいっ!?と声を張り上げた途端、縋っていた理屈がボロボロと崩れ、根性の世界に引き摺り込まれる。目の前には「まずやってみろ」、「考えるな」、「できるまでやれ」などと書かれた扉が無数にある。背後に逃げ道はない。無数にあるようで同じところへ続く扉を開けるしかないのだ。
 世の中は結局理屈を再現するための根性が必要だ。それを真正面から受け止め、落胆して、染まってみる。根性、根性と心の中で、口に出しても呟いてみる。どうにも馴染まないが、理屈、理屈、と言っているよりも、根性、根性と言っている方が何かと都合が良い気もしてきた。

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