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硬直した俳句を脱したくなる『余白の祭』

恩田侑布子の評論読書月間の締めくくりは、

である。「新しい俳句を詠むってどういうことだろう?」と漠然と思ってきたけど、そのヒントに満ちた本でした。

「俳句を硬直させない」ための提言が多角的になされています。引用箇所たくさんですので、早速参ります!

詩人石原吉郎は「定型についての覚書」でこう言った。

定型は「不断に」これを脱出するためにある。定型の枠が存在することによって、はじめてこれに対する抵抗がうまれ、脱出するための情熱と、圧縮されたエネルギーが生まれる。たえず突破と収縮をくり返すこと、みずからの住居についに安住すまいという意思を持つこと、それが定型詩人であるということの意味である。

p.63 編

定型詩人っていいな。

上野千鶴子は1983年の「京大俳句」終刊号でこう言った。

俳句という最短詩型は自己完結を許さないことで、私を他者へと開きつづけました。私はことばが他者のものであること、というより、他者と私とのあいだ・・・のものであることに次第に目覚めていって、自分じしんという悪夢に耽けることから、解かれていったのです。

その結果、私が俳句のおかげで俳句から離れることになったのは皮肉です。私は、自我を支えるためにどんなとくべつ・・・・のことばも必要としなくなったのです。私は私が俳句を必要としなくなる日を永らく夢見ていましたが、どうやらそこに辿り着いたようです。

p.76 編

上野千鶴子が若い頃、10年間俳句をやっていたことにびっくり。

高野ムツオのエッセイを紹介したい。

かつて日本人は死者とともに暮らしていた。しかし、物質の豊かさにのみ目を奪われ、もっと大切な世界を見失っていたのだ。見えないものを見ること。本当の意味で「見る」とはそのことを指すのではないだろうか。死者の世界が見えなければ、生者の世界は見えてこない。

その双方が見えてこそ、今という瞬間の意味も見えてくる。俳句の五七五とは、その生の瞬間を無限の時空からフォーカスしてくる、ささやかながら、実に高感度のカメラでもあるのだ。

p.84 編

ムツオさんの声が甦りますね。

季語は単なる季感として、あるいは情緒記号として使われるようになりつつある。季語のコード化、記号化の問題である。

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり  飯田蛇笏

のように、全人的な力を持った季語が、一句のなかではたらいている作品はまれである。守旧派から新興俳句まで、ひとしく季語の断片化と道具化の波にひたされている。ひたると気持ちのよいせせらぎなので、始末が悪い。

季語の断片化とは人間の断片化である。目だけの句。物の質感だけの句。そしてもっとも幅を利かせているのは、頭だけの句である。

p.92 編

グサっときますね。

手段もしくは態度であるべき写生が、いつの間にか俳句の目的にすり替わってしまったのではないか。写生のための写生、写生のための季語になり、作句から内発的なものが失われていった。写生のうまさが俳句の目的になった時、「俳句という詩」の大空は死んでしまうのである。

p.94 編

出来はさておき自分は、割と内発的に作句しているつもりだったので背中を押された気になりました。

俳句の本質は物をよく見ることに始まる。一句一句、作り手が森羅万象と真剣な対峙をする時、火花を散らすものが季語である。それを芭蕉は「物の見えたる光いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と言った。

閑さや岩にしみ入蝉の声 芭蕉

芭蕉の全人的な感応の姿、その時間を超えた深さは、子規のとびついた西洋の写生論では片がつかない。芭蕉の俳句の底に横たわっているものは、写生ではなく、観法という東洋のこころである。

p.98-99 編

観法、なるほどな〜。

近代とは、いわば身体が頭によって虐げられ続けた時代ともいえよう。わたしたちは失われた身体を取り戻したい。痩せこけていたり、ぶよぶよしたりしていない、まるごとのゆたかな心身を奪還したい。二十一世紀の俳句にはそれができるはずだと思う。

石田波郷は「気息」が大事といった。いいことばだ。宇宙の「気」と人言の「息」が火花を散らす、あるいはまぐわう。この時、一句の底が抜ける。

p.106-107 編

身体を取り戻したい、は色んな分野でホントそう思う。

明治生まれの俳人たちはなんと健啖で骨太であったことか。

分け入つても分け入つても青い山  山頭火
水澄みて金閣の金さしにけり    青畝
薄紅葉恋人ならば烏帽子で来    鷹女


咀嚼ということを考える。先達は、こころのおもむくままを自在に自分自身の歯で噛み砕いた。自分でもまだ未消化のもの、まだ誰も食べようとしなかったものに食らいついていかなければ、硬直し衰えるだけだ。俳句から俳句を作らず、現実に全身をぶつけつつ書く。

p.127-128 編

現実に全身をぶつけて書く、激しく同意である。

三橋鷹女の晩年の句集をひもとく時、彼方から能の闇を感じる。

囀や海の平らを死者歩く
はるかな嘶き一本の橅を抱き
花菜より花菜へ闇の闇ぐるま


能の物狂に見られるような人間の闇の部分を忘れ、ひかりの世界だけになってしまったら、俳句のゆきつく先は精神の硬直化しかない。俳句が遊芸に陥ってしまう。

鷹女は、俳句という文芸が、俳句におさまろうとする側から衰弱してゆくヘソ曲がりな詩であることを知悉していた。だからこそ晩年に向かって、短歌的情念を句作のエネルギーに変換して、貪欲に表現の冒険に挑戦していったのである。

p.137,139,146 編

闇の俳句も詠みたいものである。

季語を生んだ母体としての、悠久の風土の記憶。そうしたことば以前のものを「場」として取り込むことによって一句は成立する。そして作り手が、まる裸になって宇宙に向かう時「場」からはみ出してゆくもの、それこそが俳句のいのちではないか。俳精神とは、みずからの精神の枠を破り続けることではないか。

p.153-154 編

俳精神!

ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに  森 澄雄

森澄雄は「一句全体が詩としての現実性と抽象性を二つあわせた、まどかな世界をもっていないと、句としては弱い」と語った。この句も単なる写生を超えて、「ぼうたん」のいのちをめでで、いのちとともにある。

p.240 編

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり  飯田 蛇笏

蛇笏は「よき俳人となるには魂の風韻を鍛錬し出さなければならぬ」と語った。ひとりひとりが自分のたましいを涵養してゆくかぎりない「道」だと蛇笏は言う。この句の魅力は、生と死を両睨みする肺活量の大きな益荒男部りにある。

p.260-261 編

戀の闇来にけりけりと遠蛙  高橋 睦郎

切字の「けり」を蛙の鳴き声と掛詞にしたユニークさ。「けりけり」は蛙の声の聞きなしであるとともに、恋の奴となった蛙自身の詠嘆なのだ。奇怪な蛙の鳴き声は、深い闇から湧き出で、また闇の中に還っていく。

p.237-238 編

衣をぬぎし闇のあなたにあやめ咲く  桂 信子

エロティシズムの俳句をあげる時、最初に思い起こされるべき一句。「衣をぬぎし」というまといつくような六音によって、冷ややかな涼感がリアルに感得される。あやめの花が実在以上の怪しさで性的な幻想とともに咲きほこる。俳句はこの句のような官能的な美も味わって、可能性を拡げていきたい。

あやめは王朝以来の伝統において情念を暗喩する。俳句の凝縮力とは、様々な連想を一句のなかに堰きとめることでもある。三島由紀夫はこれを「美はかたちの中にたわめられた一つの強い力だ」と要言している。俳句形式は、美への瞬発力をたわめるためにある、といっても間違いではないのだ。

p.241-242 編

滞る血のかなしさを硝子に頒つ  林田 紀音夫

18歳のとき、わたしはこの句に出会い、自殺願望を踏みとどまった経験を持ちます。絶望の中にいる人間のこころに食い入り滲み込むものこそ、本物の詩です。この世でたったひとりの絶望の友を見出し、俳句という詩の力に抱きとられたのです。

「滞る血のかなしさ」をわかつ相手が人ではなく、「硝子」であることに注目しましょう。頒ち合うことの不可能なものに、あえて「頒つ」と断言した下五切れの孤絶は、深淵をひとに覗かせます。

p.249-250 編  

めくり食ふ千枚漬とかなしみを  眞鍋 呉夫

この句をつぶやくたびに、純度の高いかなしみに酔わされます。千枚漬けを食べるという日常卑近な行為が、かくも詩品ゆたかな俳句になったことに驚かされます。研ぎ澄まされた言語感覚を支えているのは、市井に暮らす人間の実だと、あえて言ってみたい気がします。

p.274-276 編

日本画の大家、上村淳之介画伯に質問してみました。
「写生とは何か教えてください」

画伯は静かに答えられました。
「写生とは、一瞬の鳥の姿態のなかにその鳥の来し方行く末を描くことなのです」

p.294 編

俳句やん。

大雑把に括るならば、子規以降の俳句は、人間探求派も前衛俳句も、みな近代的自我をよりどころにした俳句だったといえるのではないでしょうか。抽象表現と言いつつも、主観的意識の表象を超えるものではなく、ついに自己を超えた世界をもち得なかったのではないでしょうか。

攝津幸彦は俳句の中心に、表層の自己を置かないことによって、生き生きと変容し呼吸する時間と空間を一句にたっぷりと注ぎ込みました。例えば

死に遅る滝の長さがありにけり  幸彦

何に死に遅れたのか?「女に」と読めばエロティシズムが立ち上る句に、「人生に」と読めば人間探求派の句に、「青空に」と読めば宇宙的な悲哀の句になります。

現俳壇は既成のことばの「ゴーシチ号」で大にぎわい。無我や空からことばのいのちを汲み上げてこなければ、五七五はコード化という硬直を破れるはずがありません。ここは「虚に居て実をおこなふべし」の国です。

p.339-349 編


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