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ガンダムSEEDが教えてくれたキャリア論(4) 〜震災・医師篇〜


1. 東日本大震災と「③すべきこと」

大学卒業を間近に控えた2011年3月11日、東日本大震災が発生。

元々宮城県生まれの私は、宮城県沿岸部に親戚が多くおり、たまたま震災発生の1週間前にそれらの地を訪れていました。多くの親戚の顔が頭をよぎり、親戚を助けに行かなければ、と強く思いました。

東日本大震災で発生した津波

非常食や身の回りの品を買い込み、100L入るリュックと段ボールに詰め込んで、東北道の開通を待ちました。仙台の小学校に通っていた時分の同級生・けんちゃんが埼玉に住んでおり、彼の現在の実家が石巻にあったため、二人で長距離バスの切符を買い、荷物を担いで、親族の安否を確認する旅に出ました。

石巻市内は、津波が運んできたヘドロによって、一面漆黒のペンキで塗りたくられたような有様。ガソリンスタンドを巻き込んだ津波が残したヘドロはガソリンを含んでおり、日が当たると鈍く光ります。ガソリン不足で車は走っておらず、徒歩か、ガスで走るタクシーが足代わりとなりました。

2週間前に歩いた街並みは、そこに初めから何も無かったかのように更地になり、変わり果てていました。避難所で親戚を見つけては、食料と身の回りの品と現金を置いてきました。ケンちゃんの家も跡形もなくなっており、残された土台に2人で立ちすくんだ見た光景は、今も忘れません。

また、3月にもかかわらず雪が舞い、極寒の中で行う作業は、身体にこたえます。ヘドロに足を取られながら町中を歩き回ったり、瓦礫に埋もれた親戚の家の中で、海水で膨張した木のタンスをスコップで叩き壊して通帳を探したり、沿岸部でかろうじて残った家からヘドロを掻き出したりする作業を何日も続けた結果、最後には高熱を出してダウンしていました。

そのような過酷な環境の中で、自衛隊員の方々が黙々と任務に従事し、親戚など地域の方々を助けて下さる姿に、感銘を覚えました。

震災は、自分が「③すべきことは何か」(What I should do)を明確に意識した経験でした。「日本を、国際社会を、危機に強い平和な社会にすること」が自身のなすべきことであると。
【③すべきことは何か】

2. 医師の道へ

被災地で親戚回りをしており、大学の卒業式は出席できなかったので、何やら明確に卒業した気分もないまま上京し、東京の病院に就職。研修医を始めました。

医学の中では最も関心があった脳を集中的に勉強したいと思い、また、人間の生存にとって最もクリティカルで危機的な場面にも出くわすことの多い分野ということで、脳神経外科を専攻。

脳外科をはじめ、様々な診療科で働くことで大きな学びがありましたが、私のキャリア形成に最も大きな影響を与えたのは、在宅医療です。

在宅医療を行うクリニックで働かせて頂きました。訪問するご家庭の中には、介護や生活に苦しみ、医療だけでは支えきれないご家庭や、独居寝たきりの高齢者の方がおられるなど、多くの社会問題と触れる機会を得ました。それを一から教えていただいた恩師は、今も地域の方々を日々診療して回っています。

日本を「危機に強い平和な社会」にするためには、このような内政上の問題に対してもしっかりと対処せねばならないと実感し、内政・外政にわたる政策の重要性を改めて認識しました。

自分にとって、「②望むことは何か」「③すべきことは何か」は決まっている。しかし、「①できることは何か」はまだない。できることは何もない。

しかし、それはその後の政府での経験を通じて身に付けていくことになります。

ガンダムSEEDが教えてくれたキャリア論(5)


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