この手間がいい論争勃発 2021秋
「この手間が良いんじゃないか。
最近の若者は何でも便利になれば良いと思って。」
仕事でおっちゃんと電車に乗った際、左手に着けていたApple Watchをかざして改札を通った私を見て、切符を改札口に送り出した彼は苦言を呈した。
聞くと通勤経路を外れて電車に乗る時は、毎回路線図とにらめっこして切符を購入するのだと。
こういう書き方をすると、時代について来られない高齢者を嘲笑っている風に捉えられるだろうか。
だが、何もそういう話ではない。
「この無駄が良い、手間が良い」の論客は年配の者にかぎったことではないからだ。
時折、同世代の飲み会でも「この手間が良い」派の演説を聞かされることがあった。
それは決まって酒の入った2次会の終盤で繰り出されるのだ。
この手の主張を聞くたび、私はいつも辟易としていた。
なぜなら、
「この無駄を許容できる器がありますよ」
「人と一風変わった自分イケてるでしょ」
なんて言いたいのだろう、と思っていたからだ。
いや、そうですよ。わかってます。
歪んでますよね。
どんな青春時代送ってきたらそんな捻くれんねん、というツッコミは甘んじて受け入れます。
いやでもね、とにかくこういった類のポリシーを聞かされるのが苦手だったんです。
しかし、ある日突然、そんな捻くれマンに衝撃の走る事件が起こった。
それは、いつものように京都の街をぷらぷらと出歩いた日のあとのことだ。
これまたいつものように、フィルムカメラで何枚かパシャパシャ撮った写真を現像しようとカメラのキタムラに入った。
そう、自分で撮った写真を見るために写真屋に行ったのだ。
うんうんうん。えっ。
これって「手間」じゃないか。
えーー!!
はい、ここでさっき言ってた衝撃ドーンです。
身動きが取れず、しばらくその場で立ち尽くした。
これまで数々と聞いてきた「この手間がええねん」が、無抵抗の私を走馬灯のように駆け巡る。
きっとあの時の私をカメラで一枚撮ってみれば、
【衝撃そして哀愁】なんて題名の写真が撮れていただろう。
なんと、図らずもあんなに忌み嫌っていた「この手間が良い」一派に仲間入りしているではないか。
でも、たしかに思い返してみると、ああ、そうだな、
この手間が良い。
フィルムカメラなんてものは、デジタルと違っていろんな手間があるんです。
・フィルムを用意しなきゃいけない
・撮れる枚数も限られる
・シャッターを押すときに実際に写っている構図が見えない
・現像にお金&時間がかかる
なんじゃこりゃああ!手間だらけやんか!!
こちとらちゃぶ台ひっくり返す勢いですよ。
でもね、こんなデメリットがあるからこそ、現像するまでわくわくするし、1枚1枚の写真に愛着が湧くし、写真自体にも味が出るんです。
切符のおっちゃんは、手間を許容できる器なんて微塵も考えていなかった。それがかっこいいなんて考えているはずもなかった。
路線図を見渡して、これから行く場所へ思いを馳せていたのだ。
それがおっちゃんなりの楽しみ方。
人生を少し豊かにする方法だった。
さあ、今まで私と出会ってきた、「この手間が良い」派の諸君。
数々の無礼を詫びます。
どうか、私の手のひら返しを温かく受け入れてください。
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