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「客観的」の難しさ

「客観的に自分を見る」ってなんだか、かっこいい。でも客観的って一体どうゆうことだろう。

10代の頃、私は「客観的」の意味を勘違いし、失敗してしまった。今回は、オードリー・ヘップバーンの言葉から、客観的に自分をみつめることについて考えてみる。

今日の彼女の言葉は…
「自分を客観的に見なくてはなりません。
ひとつの道具のように分析するのです。」

山口路子.『オードリー・ヘップバーンの言葉』.大和書房,2016,22p

10代の私は、色付きのメガネで自分をみていた。憧れる人たちとその時の自分を重ねて、足りないものや異なる部分を見極め、1ミリのずれもないように慎重に調整し、振る舞っていたように思う。(もちろん、それが成功した試しはないが…。)つまり、自分がどんな人間かということから目を逸らし、他の人たちから自分がどう見えているか、どう見せたいかということばかり考えていたのだ。それが客観的に自分をみることだと勘違いしていた。

なりたい姿を想像したり、それに近づく努力をしたりすることは素晴らしいことだ。しかし、私は自分と向き合うことをすっ飛ばして、理想ばかりに目をむけてしまったため、地に足がつかず、自分が何者なのか、どんどんわからなくなっていった。

「ひとつの道具のように」(山口,2016)というところが肝心だ。道具を渡された時、すぐにその形をむりやり変形させようとはしない。まず、冷静にその道具をどう使うのが最適なのかを考えるだろう。そして、世界にそれと全く同じ形や色がないことを知ったとき、価値を見出す。

他者からこうみられたいという思いが先行すると、色付きのメガネをかけていることにすら気付かない。本当の色や形がみえないのに、取ってつけたように着飾り、振る舞いを学んでも、そのスタイルは自分のものにはならないのかもしれない。飾りのないまっさらな自分に価値を見出してから、ファッションやメイクを楽しんだ方がずっと楽しいだろう。

山口さんは、オードリーが個々にファッションの掟を作るべきだということを知っていたと記している。オードリーが自分を分析し、「自分だけのファッションの掟」(山口,2016)を作ったように、同一視するのではなく、まっさらな自分に色付けしていくことを、そして、自分が一番好きだなと思える姿でいることを受け入れて無邪気にファッションを楽しみたいものだ。


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