見出し画像

黒埼ちとせさんの競争

 巣穴から続々と地上に出てくる蟻のように、駅に着いた電車のドアが開くと乗客がぞろぞろ降車していく。ちとせも電車から降りてホームに立った。腕時計を見ると約束の十分前。ちょうどいい頃合いだ。
 ちとせは改札を通って駅前の広場に向かった。待ち合わせの相手、瑞樹はすでにそこにいた。駆け寄ってきたちとせに瑞樹は言った。
「ちとせちゃん、元気?」
「うーん、まあまあ」
「そう。まあまあ元気なら問題ないわね」
 ふたりは並んで歩き出す。目的地は郊外にある蕎麦屋で、そこで昼食を食べるのだった。瑞樹とちとせはちょくちょく昼ごはんを一緒に食べる仲だ。ただそれ以上の付き合い――一緒にテーマパークに行くとか水族館に行くとかスポーツ観戦に行くとか――はなかった。けれどもちとせはこのくらいの関係がちょうどいいと思っていた。
 店に着いて、店内中央の席に座ると瑞樹もちとせも天ぷら蕎麦を注文した。この蕎麦屋の天ぷら蕎麦は日本で七番目くらいにおいしいらしい、とネットで評判だったのでそれを確かめるべく訪れたのだ。
 出てきた天ぷら蕎麦はなるほどいい味だった。ちとせが海老天をかじってこれはおいしい、と思っていると、瑞樹が言った。
「ちとせちゃんの新曲、いい感じに売れているわね」
「私もこの曲はいけるんじゃないか、って歌ってて思ったよ。プロデューサーも褒めてくれたし」
 瑞樹はいつの間にか蕎麦を食べ終えていた。ちとせはよく味わって、ゆっくり食べた。
 食べながらちとせは自分が先日リリースした新曲のことを考える。瑞樹の言った通り新曲のセールスは好調で、ヒットチャートのトップテンに入っていた。チャートの順位を思い浮かべてみると、ちとせより順位の低い楽曲は手がけたアーティストの名前はよく聞くがいまひとつ人気が出ない、という曲が並んでいて、それらと比べれば自分は売れていて、そこそこ評価されているんだなとちとせは思い、満足した。
 そして蕎麦を食べ終わったちとせは箸を置いた。瑞樹はお冷やを飲んで言った。
「おいしい天ぷらだったわね。また来ましょ」
「うん。何度も通いたくなる味だね」

 それから間を空けずちとせは新曲を出すことになった。ちとせの評価が高まっているからどんどん曲を出していけ、とプロダクションは考えているらしい。ちとせも高評価されるのはいい気分だし、勢いに乗って歌を唄っていくのもいいなと思ったのでがんばって曲作りに取り組んだ。
 そしてその新曲のリリース後、ちとせとプロデューサーは一緒にヒットチャートを見てみた。事務所のブースの中、プロデューサーがチャートをタブレット端末に映す。
 それを見てちとせの鼓動は高まった。ちとせの新曲は健闘しているものの、いつもちとせより下位にいた、あの見慣れたアーティストたちの曲がちとせを追い抜いてトップテン入りしている。
「中ヒットくらいの出来栄えかな。がんばったんだけどね」
 チャートを目でなぞりながら、ちとせは言った。プロデューサーはヒットチャートの順位をじっくり見ていたが、なにも返事はしなかった。
 ちとせはがんばったが、ほかのアーティストだってがんばっている。いつも下位にいる者は、だからこそ上位に昇るために一層努力するのだ。ちとせだけが特別というわけではなく、みんなが上を目指している。
 考えてみれば当然のことだ。他人だってただ大人しく下位にとどまり続けようとは思わない。他人は他人で成功を求めるだろう。
 プロデューサーが口を開いた。
「ちとせさん、めげずにやっていきましょう。実はさらに新曲を出す企画が動き始めています。忙しくなりますよ」
「そうなの? そっか、じゃあもっとがんばらないといけないね」
 また曲をリリースして、チャートの順位を気にするようになるのかと思うと、ちとせはあまり安心できなかった。

 今日はジャンクフードが食べたいと瑞樹が言ったので、ちとせと瑞樹はファストフード店でハンバーガーを頬張った。油とコレステロールがいっぱい詰まったハンバーガーをふたりで食べた。
 瑞樹はサイドメニューのフライドポテトを摘んで言った。
「元気がないわね、ちとせちゃん」
「わかるの? 瑞樹さん」
「だってあからさまに落ちこんだ表情だもの」
「そっか、顔に出てたんだね」
 ちとせはチャートの順位について話した。瑞樹もすでにチャートを見ていたようだった。いつも下位にいた者が自分を追い越していく。それはおかしなことではない。ならば自分もがんばって競争しなくては。そんなことをちとせは言った。
 瑞樹はジンジャエールを飲んで言った。
「誰でもいつも競争に勝てるとは限らないわね。調子のいいときもあれば悪いときもあるというのは当たり前でしょう。その中で諦めず、ちょっとずつでも調子を上げていければ、それは悪くないことだと思うわ」
「諦めず、ちょっとずつか……ありがとう瑞樹さん。もうちょっとそのあたりを考えてみる」
「ちとせちゃんはまだ若いんだし、これからもっと活躍できるわよ」
 そう言って瑞樹はジンジャエールを飲み干した。ちとせは相変わらずゆっくり食べた。ジャンクな味のハンバーガーも結構おいしいなと思った。

 数週間後、瑞樹がプロダクション内の廊下を歩いていると、同僚の智絵里がスマホを手にしてうつむいているのを見かけた。瑞樹は声をかけた。
「どうしたの、智絵里ちゃん」
「あっ、瑞樹さん。実は私の曲、大ヒットしているみたいなんです」
「そりゃ、すごいわね」
 智絵里がスマホの画面を瑞樹に向けた。ヒットチャートが映っていた。チャートの第一位に堂々と智絵里の曲のタイトルがある。智絵里は言った。
「ネットの反応を見てみると、運が良かったから一位になれた、とか、まぐれで一位になっただけ、みたいな意見も多いんです」
「チャートの一位に入るのは相当な努力があってのことだわ。まぐれじゃなく智絵里ちゃんの実力が出たってことでしょ」
 瑞樹はそう言ったが、智絵里は考えがあるようだった。
「私も実力のついたアイドルになってきたかな、と思うこともあります。でも今回はまぐれって言われても、それもそうかなって感じるんです。運も実力のうちって言いますけど、今回の結果は実力も出たし、それに加えて運もあったんだなって思うところがあって。でも、大変なのはこれからなんですよね。ずっと私が一位をキープできるとは思えないし、ほかの方も人気を得ていくでしょうし……でも、アイドル界隈の環境ってこんな感じですよね。一位を取ったり取られたり、みんなで競争してがんばっていくっていう、そういう環境の世界なんでしょう」
 瑞樹はちとせとハンバーガーを食べた日を思い出した。ちとせは自分の人気が下がって落胆していた。それに対して大成功する智絵里のようなアイドルも出てくる。そういうことが常に起こりうる環境のもとでアイドルたちは活動している。
 その環境下でも、諦めないでほしいと瑞樹は思う。ちとせにも、智絵里にも。

 一方その頃、ちとせの新曲は完成し、あとはリリースする日を待つのみとなった。この曲は何位にランクインするかな、上位に行けるかな、ダメかな……とちとせは不安になったのでプロデューサーに話をしてみた。
「魔法使いさんは、今回の曲、ヒットすると思う?」
「きっといけますよ――そういえば最近、ちとせさんはあまり元気がないですね」
「わかってるんだね……歌うことは楽しいけど、受け手に評価されて順位が決められちゃうと、上に行きたい、下に行きたくない、って思っちゃうの。それに振り回されている感じがして、落ち着かない」
 プロデューサーは頷き、共感の念を込めて言った。
「人間は他人と自分を比べずにはいられない生き物だと、どこかの学者が言っていましたね。僕もしょっちゅう他の人と自分を比較している」
「魔法使いさんもそういうことで悩んだりするの?」
「もちろんです。なんであいつにばっかり仕事が渡されるんだ、俺だって仕事はできるぞ、だからこっちにも活躍させろとか、いつも思っています」
「それで、辛くなったりするのかしら」
 ちとせの問いかけにプロデューサーはゆっくり言葉を出していった。
「しんどいなと思うときも多いですよ。自分が惨めに思えてくるし、嫉妬してストレスが溜まったりする。それに対処するため、考えるんです。他人が自分より評価されていても、だからと言って自分が無能である、弱い、アホである、犬畜生にも劣るのではない。逆に自分が他人より褒められていても自分は強いとか、優れているわけでもない。評価の上下は確かにあっても、強弱とか、善悪、優劣に直ちに結びつくわけではない、と。ただちょっとした、なにかの差がある。その差を詰めていくのが仕事のおもしろいところだと思います。僕自身も完全にそう思えているわけではありませんが……」
 ちとせはそれを聞いて思ったことを言った。
「私がその差を――評価軸をよく考えればいいんだね。ヒットチャートは結果のひとつに過ぎなくて、差をつける軸はほかにもある。チャートの上位を目指すのも大切なんだけど、それにとらわれない、なにか新しい評価軸を作れれば、それで自分と他人を計れるんだ」
「そうですね。想像力を持って、まったく別の評価軸を作る……めちゃくちゃ難しいことですけど」

 今日の昼ごはんは中華料理だった。瑞樹は注文した餃子をもぐもぐと咀嚼して飲み込んだあと、ちとせに言った。
「ちとせちゃんの新曲、チャートの三位に入ったわね。がんばった結果が出たじゃない」
「瑞樹さんの新曲は一位に入ってたよ。私より瑞樹さんががんばったんじゃない?」
 ちゃっかりリリースしていた瑞樹の新曲はチャートのナンバーワンに輝いていた。
「それでも友達ががんばったのはうれしいわよ。今日はがっつり食べましょう」
「私、そんなにいっぱいは食べられないよ」
 しかし友達ががんばるのがうれしいっていうのは本当だなとちとせは思った。ちとせも瑞樹が一位になってうれしかったし、自分が瑞樹より順位が下でも悲しくない。
 ということは、友達関係を広げていけば、他人と自分の差を見ながら、うれしい気持ちに昇華できるのかもしれない。それなら友達を増やす努力をしてみようか。
 ちとせはそう考えながら、自分が注文したチャーハンをゆっくり食べる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?